日本大百科全書(ニッポニカ) 「将軍塚古墳」の意味・わかりやすい解説
将軍塚古墳
しょうぐんづかこふん
将軍塚と称する古墳は、中国吉林(きつりん)省集安市の通溝(つうこう)、長野県の川柳(せんりゅう)・森・土口(どぐち)・倉科(くらしな)・有明山(ありあけやま)、群馬県の元島名(もとしまな)、埼玉県の野本・埼玉(さきたま)など各地の地名を冠するものが多く知られ、それぞれの地域の有力古墳であるが、とくに著名なものを3基紹介する。
[久保哲三]
川柳将軍塚古墳
長野市篠ノ井(しののい)石川の千曲(ちくま)川を望む標高480メートルの山頂上に立地する前方後円墳。全長約93メートルで、前方部を北東に向け、葺石(ふきいし)・円筒埴輪(はにわ)がみられる。1979年(昭和54)に、発掘当初の記録「万伝書覚帳(よろずでんしょおぼえちょう)」が紹介され、それによると、1800年(寛政12)5月に4人の農民が発掘し銅鏡42面を得たという。副葬品の一部は上石川の布制(ふせい)神社に所蔵されている。1893年(明治26)ごろ石室の石材が失われたが、竪穴(たてあな)式石室があったと推定され、1929年(昭和4)の森本六爾(ろくじ)の調査によって、鏡27面のほか、銅鏃(どうぞく)、筒形銅器、筒形石製品、車輪石、鉄刀、紡錘(ぼうすい)車などの副葬品が確認されている。江戸時代の古記録のとおりであれば、鏡の所有数が京都府椿井(つばい)大塚山古墳の36面をしのぎ全国一ということになるが、他古墳の出土品の混入も考えられ、今後の検討課題である。
[久保哲三]
森将軍塚古墳
長野県千曲市森の丘陵尾根上に立地する、やや変形の前方後円墳。1964年(昭和39)より3か年にわたり東京教育大学が発掘調査し、81年より5か年にわたり史跡公園化するための調査が行われた。全長99.5メートル、前方部を南西に向けているが、墳丘全体は地形に左右されて対称ではなく、主軸は屈折し後円部は楕円(だえん)形に近い形を呈している。墳丘は外縁部に石垣を組み、円筒埴輪を巡らしている。後円部は三段築成で、墳頂部に9メートル×11.5メートル、深さ2.3メートルの土壙(どこう)をつくり、その中に全長7.6メートル、幅2メートル、高さ2メートルの隅丸(すみまる)長方形の竪穴式石室がつくられている。このほか箱形石棺や埴輪棺などの小形埋葬施設が、前方部墳頂や墳丘裾などに62基検出されていることも本墳の大きな特徴である。副葬品は盗掘にあって全体像は不明であるが、三角縁神獣鏡1、硬玉製丁字頭の大形勾玉(まがたま)1、碧玉(へきぎょく)製大形管玉(くだたま)2、直刀(ちょくとう)、槍(やり)、刀子(とうす)、鉄鏃、鉄鎌(てつがま)、匏(ひさご)形土製品、土師器(はじき)などが出土している。4世紀代の畿内(きない)型古墳である。
[久保哲三]
元島名将軍塚古墳
群馬県高崎市元島名にある前方後方墳。井野川東岸の段丘縁に立地し、前方部を東南東に向ける。明治年間に発掘されて粘土槨(ねんどかく)が検出され、石釧(いしくしろ)、鉄刀、やりがんななどが出土したという。1981年(昭和56)に周湟(しゅうこう)の確認調査が行われ、古式土師器が大量に出土した。全長100メートルを測る関東最大の前方後方墳である。
[久保哲三]