東陽一(読み)ヒガシヨウイチ

デジタル大辞泉 「東陽一」の意味・読み・例文・類語

ひがし‐よういち〔‐ヤウイチ〕【東陽一】

[1934~ ]映画監督和歌山の生まれ。女性主人公にしたドキュメンタリータッチの作品を多く手がける。代表作「もうほおづえはつかない」「四季・奈津子」「化身」「絵の中のぼくの村」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東陽一」の意味・わかりやすい解説

東陽一
ひがしよういち
(1934― )

映画監督。和歌山県に生まれる。1958年(昭和33)早稲田(わせだ)大学卒業後、文化・記録映画の岩波映画製作所に入る。退社後、軍事基地の島、沖縄の実相に迫った長編記録映画『沖縄列島』(1969)を発表、同じく沖縄を扱った劇映画『やさしいにっぽん人』(1971)で注目を集める。少年院に収容される非行少年たちの軌跡を柔らかな視線で追った『サード』(1978)の成功以降、平凡な女子大生の日常生活をていねいにとらえた『もう頬(ほお)づえはつかない』(1979)や『四季・奈津子』(1980)などニュアンス豊かな映像で女性映画を多く手がける。『マノン』(1981)、『セカンド・ラブ』(1983)、『湾岸道路』(1984)と作品を積み重ね、「銀座の女」の変身を描いた渡辺淳一原作の『化身』(1986)をヒットさせ、風俗監督としての手腕評価された。兄弟の成長を通して被差別部落の歴史を描いた住井すゑ原作『橋のない川』のリメイクに挑戦(1992)、抑制のきいた手堅い演出でまとめあげた。ドキュメンタリー出身らしい観察者的な視線で、豊かな自然のなかで育つ双子とその家族を描いた『絵の中のぼくの村』(1996)でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。自然のなかでの自己回復を描いた『ボクの、おじさん』(2000)も同じ傾向の作品である。

[佐伯知紀]

資料 監督作品一覧

沖縄列島(1969)
やさしいにっぽん人(1971)
日本妖怪伝 サトリ(1973)
サード(1978)
もう頬づえはつかない(1979)
四季・奈津子(1980)
ラブレター(1981)
マノン(1981)
ザ・レイプ(1982)
ジェラシー・ゲーム(1982)
セカンド・ラブ(1983)
湾岸道路(1984)
化身(1986)
うれしはずかし物語(1988)
橋のない川(1992)
絵の中のぼくの村 Village of Dreams(1996)
ボクの、おじさん The CROSSING(2000)
わたしのグランパ(2003)
風音(2004)
ナース夏子の熱い夏(2010)
私の調教日記(2010)
酔いがさめたら、うちに帰ろう。(2010)
姉妹狂艶(2011)

『東陽一著『午後4時の映画の本』(1979・幻灯社)』『東陽一著『映画と風船――ぼくと映画と女優たち』(1980・パンドラ社)』『内藤昭著・東陽一(聞き手)『映画美術の情念』(1992・リトル・モア)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東陽一」の解説

東陽一 ひがし-よういち

1934- 昭和後期-平成時代の映画監督。
昭和9年11月14日生まれ。昭和33年岩波映画に入社,37年フリーとなる。44年東プロダクションを設立,記録映画「沖縄列島」を監督。46年「やさしいにっぽん人」で評価をうけ,53年「サード」でおおくの映画賞を受賞。作品はほかに「もう頬づえはつかない」「橋のない川」など。和歌山県出身。早大卒。

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