浅井村(読み)あさいむら

日本歴史地名大系 「浅井村」の解説

浅井村
あさいむら

[現在地名]江刺市藤里ふじさと

片岡かたおか原体はらたい両村の東に位置し、北上高地中央部の山地と丘陵に立地。東境に永倉ながくら(三九一・九メートル)銚子ちようし(三六五メートル)などがある。浅井川(伊手川支流)が西流し、流域の当村南部に平地が開けている。村名は字前村まえむらにあった浅井戸(「安永風土記」にみえる「岩清水」)に由来するとの説がある(江刺郡志)。康永元年(一三四二)葛西詮清と江刺高嗣が「浅井村」で合戦している(伊達世臣家譜)。一五三〇年代頃の熊野山新宮勧進状(熊野速玉大社文書)に、紀州熊野社への寄進者として「五百文 浅井 中務少輔重朝」とみえる。天文一三年(一五四四)葛西晴信の勘当を受けた江刺三河守信時が、浅井館で謹慎したという(岩手県史)。この江刺三河守は「葛西真記録」によれば葛西家御城後見番詰で「居城岩谷堂二百五十人士頭」、また「浅井村主」であった。


浅井村
あさいむら

[現在地名]浜田市浅井町・殿町とのまち田町たまち浦町うらちよう松原町まつばらちよう

浜田城下の北東に位置し、北は日本海に面し、東は長沢ながさわ村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高三三〇石余、年貢高は田方一一六石余・畑方四四石余。小物成として釣舟役銀三七匁五分が課されていた(同年古田領小物成帳)。正保四年(一六四七)の古田領郷帳でも同高であるが、黒川くろかわ村の高のうち田町川端一石余が編入されたほか、殿町屋敷・法花寺ほつけじ屋敷の高一五八石余で、有高一六九石余(免四ツ三分)。享保二年(一七一七)の巡見使案内覚書(小川家文書)では高二四八石余、家数七五・人数五五五、牛一九・馬二、廻船一・漁船八。浜田城郭内への東出入口が田町にあり、裏門として田町番所が設けられていた。


浅井村
あさいむら

[現在地名]稲沢市浅井町

東は天池あまいけ村に接し、中央に池があり、北の竹腰たけのこし村境を宮田用水しま(塩江川)が流れ、八幡・神明・白山の三社と、西境の明蔵みようぞう寺の間に人家が集中していた(天保村絵図)

寛元三年(一二四五)尾張俊村・俊秀父子が中島なかじま観音堂に私領を寄進した連署状(宝生院文書)に「浅井村内尾張三郎馬允盛長屋敷畠」とあるのが初見。妙興寺文書によると文和二年(一三五三)の妙興寺領坪付注文に「一所 陸段小 浅井角畠」とみえ、永和三年(一三七七)の妙興寺年貢注文にも「六反小 三貫二百文 角畠浅井同前」とみえる。


浅井村
あさいむら

[現在地名]会見町浅井

宮前みやまえ村の南、小松谷こまつだに川左岸の谷間に位置する。拝領高は二三六石余、本免は四ツ五歩。藪役銀六匁が課せられ(藩史)、米子組士小原氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二八五石余、竈数三四。「伯耆志」では家数三四・人数一四七、林八町四反余。享保九年(一七二四)荻名おぎな村分領大谷おおたに山の柴草秣場入会をめぐって寺内てらうち村など一一ヵ村と争論を起こした星川ほしかわ谷一〇ヵ村の一であった(在方諸事控)


浅井村
あさいむら

[現在地名]鳴瀬町浅井

野蒜のびる村の北、鳴瀬川の下流右岸に位置し、現国道四五号に架かる小野おの橋より下流の鳴瀬大橋に至る地域に相当する。大部分が丘陵で耕地は同川に沿って展開。村名の由来は地内あら神社より一町半ほど南方にある水涸れがない浅井戸にちなむといわれ、現存する。正保郷帳に村名がみえ、田七五貫三四六文・畑三貫一二六文で旱損と注され、ほかに新田一貫二六八文。年未詳の風土記書出(「鳴瀬町誌」所収)によると田七九貫五四〇文・畑四貫七八二文で、うち蔵入五貫三五一文、ほかは給地。


浅井村
あざいむら

[現在地名]土佐市浅井

岩戸いわど村の南西に位置し、波介はげ川に合流する浅井川の流域に立地。「土佐州郡志」は「在本村南、東西二町余南北十三町」と記す。戸波へわ郷に属し、天正一七年(一五八九)の戸波郷地検帳にみえる浅井村が近世の浅井村になったと考えられる。元禄地払帳では総地高三七二石余、うち本田高三五七石余・新田高一五石余。本田のうち蔵入地五九石余、新川損田引地八石余、残りは宮川小十郎ほか五名の知行と考えられる。新田はすべて貢物地。新川損田は慶安三年(一六五〇)に本田九反余を潰して新川を開いたときの損田と考えられる(「当鑑通宝集」琴弾八幡宮蔵)。「土佐州郡志」によると村内を西之にしの川・中之なかの川・ひがし川・おか川が流れ、聖光屋敷の東で合して北流、手古地てこじ池に流入した。


浅井村
あさいむら

[現在地名]鹿島町浅井

長曾ながそ川の左岸、徳前とくぜん村の西に位置する。地名は上日あさひ郷の土豪浅井氏の本拠地であることに由来するという(能登志徴)。徳前村に至る土砂どす河原は古来洪水により土砂が堆積し、高い自然堤防により天井川を形成する。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高四一石余。正保郷帳では高四三石余、田方二町五反余・畑方四反余。寛文年中(一六六一―七三)廃絶し、延宝七年(一六七九)再興したという(文政三年「東庄組村鑑」多田文書)


浅井村
あさいむら

[現在地名]若桜町浅井

若桜宿の南東、八東はつとう川東岸に位置し、若桜往来が通る。拝領高は一一三石余、本免四ツ八分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一四二石、竈数一〇余。「因幡志」では家数八、産土神は牛頭天王。物産は莨。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一三四石余、竈数一一。天保三年(一八三二)八東川に架かる浅井橋が破損したため、舂米つくよね村など八ヵ村は架替え用の材木下付を願出、藩は中原なかはら村の山林から切出した杉木一〇本を下付した。文久三年(一八六三)出入国取締のための番所が当地にも設置され、裏判所から諸道具が運び込まれている。


浅井村
あさいむら

[現在地名]五所川原市浅井

東は福山ふくやま村、西は七ッ館ななっだて村、北は水野尾みずのお村に接する。

宝永元年(一七〇四)の開村といわれ(長橋村誌)、元文元年(一七三六)の検地帳は浅井村田方六五町五反二一歩・畑方二一町七反一歩、田畑屋敷合せて八七町二反二二歩、村高四七一・三三五石と記す。同年俵元新田八ヵ村の一つに数えられる。享保一二年(一七二七)それまでの安田村を浅井村と改称、村位は下で、石盛は四ツ成であった(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、天明八年(一七八八)に二五一・一石、寛政一〇年(一七九八)に一一七・二石、文化九年(一八一二)に一〇三石の新田高が書上げられている。


浅井村
あさいむら

[現在地名]久留米市山本町耳納やまもとまちみのう

山本村の西に位置する。屋敷地は山辺やまべ往還の南で、耳納みのう山中には御立竹山が記される(上三郡絵図)。本高は一一六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一八〇石・役高一四二石。庄屋聞次は山本村嘉七。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗三升、人数四八、馬六(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一四四石。文化四年(一八〇七)畝付帳では本田七町八反余・畑四町余・開畠三畝余・居屋敷一反余。


浅井村
あさいむら

[現在地名]朝日村浅井

西流する飛騨川右岸の村で段丘上に集落があり、西は寺沢てらざわ村。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえる(→万石村。元禄検地反歩帳の高二六石余、田六反余・畑八町四反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割七分七厘、家数一八、うち百姓一七・門屋一。寛政一二年(一八〇〇)には田四石余・畑三一石余、うち新田高一〇石余、反別田七反五畝余・畑一四町四反余、家数一八・人数一三四、馬一七、猟師鉄砲四(村明細帳)


浅井村
あさいむら

[現在地名]甲佐町下横田しもよこた

東は上早川かみそうがわ村、西・南は下横辺田しもよこべた村、北は下早川村に接する。近世は甲佐手永に属した。「国誌」では下横辺田村の小村となっている。宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では本高二〇三石二斗余、田九町八反一畝余・畑一町八反九畝余、新地田畑八反一畝余、諸開(一毛畝物・定米畝物・野開・請藪・新請藪)七反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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