日本大百科全書(ニッポニカ) 「松坂屋」の意味・わかりやすい解説
松坂屋(株)
まつざかや
名古屋財界の有力企業である百貨店。1611年(慶長16)、織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道(すけみち)が名古屋本町に呉服小間物商のいとう呉服店を創業。1768年(明和5)には上野の呉服屋松坂屋を買収して、江戸進出を実現した。
1875年(明治8)にゑびす屋呉服店を買収して大阪に進出、1910年(明治43)に株式会社いとう呉服店として、名古屋・栄町(さかえまち)(現名古屋市中区栄3丁目)に百貨店を新築開店した。1917年(大正6)に上野店新本館が完成、1923年には大阪・日本橋(にっぽんばし)(1966年天満橋(てんまばし)に移転)に大阪店を開店した。同年の関東大震災により上野店が全焼したが、翌1924年に銀座店を開設、上野店本館も1929年(昭和4)に再建され、三大都市に4店舗を有する百貨店となった。開店した銀座店はわが国の百貨店のなかで最初の土足入場を実現し、だれでも立ち寄れる店舗となり、百貨店の大衆化を進めていった。1932年には静岡店を開店した。なお、1925年より社名から呉服店を外して株式会社松坂屋となった。
第二次世界大戦による空襲で名古屋店や銀座店を焼失するなど、戦争の被害も大きかったが、戦後は、まず各店舗の復興を進めた。1957年(昭和32)には上野店南館が完成して大型店舗となり、この年に「カトレヤ」のシンボルマークを制定した。1961年にはニナリッチのパリモードを独占契約し、各地でショーを開催した。1970年代に入り、多店舗化を推進、1971年に岡崎店、1974年に大阪・枚方(ひらかた)のくずは店と名古屋駅前店、1979年に高槻(たかつき)店を開店した。また香港、パリ、ロサンゼルス、サンフランシスコなどに開店して海外戦略を推進し、1972年には世界的共同仕入機構であるAMCに加盟して海外商品の買付けを強化した。
会社創立80周年を迎えた1990年(平成2)には生活総合産業の実現に向けての動きを開始、翌1991年に名古屋本店南館を増築して中部地方における一番店の地位を絶対的なものとしたほか、四日市(よっかいち)店開店や自社カード「マツザカヤMY(マイ)カード」の発行などの新事業を実現した。2004年に大阪店とくずは店を閉鎖し、国内店舗は8店となった。海外も2005年のパリ店閉鎖を最後に撤退、不採算店舗の整理を進めた。2006年9月株式移転により松坂屋ホールディングスを設立、松坂屋はその子会社となる。さらに松坂屋ホールディングスは2007年9月に大手百貨店の大丸(だいまる)と経営統合、共同持株会社J.フロント リテイリング(以下J社)を設立したのち同年11月にJ社に吸収合併されて松坂屋ホールディングスは解散。松坂屋はJ社の直接子会社となった。松坂屋の資本金98億円(2008)、売上高2854億5500万円(2008)。J.フロント リテイリングの資本金300億円(2008)、売上高1兆0164億円(2008。連結ベース)。
[中村青志]
『株式会社松坂屋編・刊『松坂屋70年史』(1981)』▽『株式会社松坂屋編・刊『松坂屋・銀座とともに八十年』(2004)』