日本大百科全書(ニッポニカ) 「松坂藩」の意味・わかりやすい解説
松坂藩
まつさかはん
伊勢(いせ)国飯高(いいたか)郡松坂(三重県松阪市)周辺を領有した藩。外様(とざま)。1584年(天正12)豊臣(とよとみ)秀吉の臣蒲生氏郷(がもううじさと)が近江日野(おうみひの)から松ヶ島(松阪市)城12万石の城主に着任。良港があり街道沿いの要地ではあるが、地形上片寄りすぎるため、4年後に四五百森(よいほのもり)という西方丘陵に築城、地名を松坂、城を松坂城と命名、楽座楽市を採用し城下町を造成した。本丸に桃山様式の三重天守閣や敵見櫓(やぐら)など、二の丸に御殿、三の丸に侍屋敷を設けた。1590年、氏郷は会津(あいづ)に転封。翌年服部一忠(はっとりかずただ)(3万5000石)が入封。1595年(文禄4)古田重勝(しげかつ)が城主となり、関ヶ原の戦いには徳川方に属し、軍功により2万5000石を加封され5万5000石となる。1606年(慶長11)重勝は病死し弟重治(しげはる)が襲封したが、19年(元和5)石見(いわみ)浜田に転封となり、廃藩。同年徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主となり、松坂領は同藩領となる。以後松坂城には紀州藩代官が置かれた。その後、天守閣、櫓などもしだいに崩れ、1794年(寛政6)二の丸跡に紀州陣屋が建てられた。1877年(明治10)失火のため城内の建物を焼失。現在、城跡内には、本居宣長(もとおりのりなが)の鈴屋(すずのや)旧宅・記念館がある。
[原田好雄]
『久世兼由著『松坂権輿雑集』(1919・三重県史談会)』▽『堀内信編『南紀徳川史』全17冊(1930~33・同書刊行会)』