デジタル大辞泉
「松旭斎天一」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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松旭斎 天一(初代)
ショウキョクサイ テンイチ
- 職業
- 奇術師
- 本名
- 牧野 八之助
- 別名
- 後名=立川 松明,服部 松旭
- 生年月日
- 嘉永6年
- 出生地
- 越前国福井(福井県)
- 経歴
- 7歳のときに孤児になり、8歳で仏門に入る。そこで密教の剣渡り、火渡りの術に興味をもつ。宗教の奇跡を自作自演して破門。放浪生活の後、奇術師になるべく長崎へ行き、明治11年米国人ジョネスから西洋奇術を修得、松旭斎天一を名乗る。ジョネスの勧めにより米国へ渡航。16年帰朝。21年3月東京浅草の文楽座において水芸、大砲芸など大仕掛けな舞台を上演し名声を得る。22年赤十字社総会の席上皇后陛下台覧、また天覧の光栄に沿した。34年から4年間欧米巡行、好評を博した。44年1月引退。大道芸を近代的な舞台奇術に発展させた。のちに〈魔術の女王〉といわれた松旭斎天勝はその弟子。
- 没年月日
- 明治45年 6月14日 (1912年)
- 家族
- 養子=松旭斎 天一(2代目)
- 伝記
- 手妻のはなし―失われた日本の奇術魔術の女王一代記―美貌の天才奇術師の芸談・奇談落語は物語を捨てられるか 藤山 新太郎 著松旭斎 天勝 著矢野 誠一 著(発行元 新潮社かのう書房新しい芸能研究室 ’09’91’91発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
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松旭斎 天一(1代目)
ショウキョクサイ テンイチ
明治期の奇術師
- 生年
- 嘉永6年(1853年)
- 没年
- 明治45(1912)年6月14日
- 出生地
- 越前国福井(福井県)
- 本名
- 牧野 八之助
- 別名
- 後名=立川 松明,服部 松旭
- 経歴
- 7歳のときに孤児になり、8歳で仏門に入る。そこで密教の剣渡り、火渡りの術に興味をもつ。宗教の奇跡を自作自演して破門。放浪生活の後、奇術師になるべく長崎へ行き、明治11年米国人ジョネスから西洋奇術を修得、松旭斎天一を名のる。ジョネスの勧めにより米国へ渡航。16年帰朝。21年3月東京浅草の文楽座において水芸、大砲芸など大仕掛けな舞台を上演し名声を得る。22年赤十字社総会の席上皇后陛下台覧、また天覧の光栄に沿した。34年から4年間欧米巡行、好評を博した。44年1月引退。大道芸を近代的な舞台奇術に発展させた。のちに〈魔術の女王〉といわれた松旭斎天勝はその弟子。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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松旭斎天一
没年:明治45.6.14(1912)
生年:嘉永6(1853)
明治時代の奇術師。越前福井藩の陪臣牧野海平と妻音羽の長男。本名服部松旭。家断絶により叔父の唯阿が住職を勤める阿波国(徳島県)西光寺へ移住した。同寺で孤児となり仏門に入ったが,宗教の奇跡を自作自演して破門され,大道芸の手品師となる。明治11(1878)年イギリス人ジョネスと共に上海へ渡り,西洋奇術を学ぶ。大仕掛けな舞台奇術を志し,21年浅草の文楽座で水芸,大砲芸や宗教劇奇術で成功した。欧米巡業(1901~05)後は歌舞伎座をはじめ全国の大劇場に出演した。大道芸の手品を近代的な舞台奇術にまで発展させた。<参考文献>青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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松旭斎天一 しょうきょくさい-てんいち
1853-1912 明治時代の奇術師。
嘉永(かえい)6年生まれ。阿波(あわ)(徳島県)安楽寺で剣渡り,火渡りの真言秘密の術を習得。さらに旅芸人に水芸を,アメリカ人奇術師ジョネスに西洋奇術をまなぶ。地方興行をへて明治21年東京浅草に進出,以後,国内外で好評を博した。明治45年6月14日死去。60歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。本名は牧野八之助。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の松旭斎天一の言及
【帰天斎正一】より
…とりわけ口から火炎を吐く技術は抜群で,民衆に西洋手品の〈科学性〉を認識させた。89年には宮中の御学問所で天覧を仰いだが,松旭斎天一(しようきよくさいてんいち)(1853‐1912。[松旭斎天勝](てんかつ)の師匠)の大型化をねらった奇術に太刀打ちできず,いつのまにか姿を消した。…
※「松旭斎天一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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