松本町(読み)まつもとちよう

日本歴史地名大系 「松本町」の解説

松本町
まつもとちよう

[現在地名]福井市松本二―三丁目・宝永ほうえい二―三丁目

福井城の北、北陸街道に沿う町で、城下北口の加賀口かがぐち御門内に松本下まつもとしも町、下町の南部から西方に同東中ひがしなか町・同西中町・同上町が屈折しながら続く。これら四町を松本竪まつもとたて町と総称し、松本下町の南に続いて南北に同きた横町・同南横町がある。北庄松本きたのしようまつもと村のうちに開かれた町屋である。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「往還松本下町 九拾三間、松本四辻ヨリ加賀口御門迄志比口入込町共ニ、但道幅六間」「往還松本中町 百三拾間、松本上町ヨリ同下町迄東西二町分、但道幅六間」「往還松本上町 七拾間、境町ヨリ松本中町迄、但道幅六間」「松本横町 百八拾三間、江戸町頭ヨリ往還四辻迄南北二町分、但道幅六間」と記す。


松本町
まつもとちよう

[現在地名]根室市定基町さだもとちよう岬町みさきちよう平内町へいないちよう・松本町・北斗町ほくとちよう光和町こうわちよう敷島町しきしまちよう宝林町ほうりんちよう

明治一八年(一八八五)から同三三年までの根室郡の町。明治一八年四月根室市街地拡張により根室村域が区画され根室松本町が成立。同年九月一―九丁目が設置された(市町村改称字名並ニ旧字名調)


松本町
まつもとちよう

[現在地名]金沢市城南じようなん二丁目・菊川きくがわ一―二丁目

川上新かわかみしん町の南西に並行する地子町。南東角場川岸かくばかわぎし町に続く。文政六年(一八二三)川上新町から分立(町奉行より出候町名)。江戸時代末の「増補改正六用集」に川上松本町とある。


松本町
まつもとちよう

中京区御幸町通夷川上ル

南北に通る御幸町ごこまち通の両側町で、北は竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)、南は夷川えびすがわ(旧冷泉小路)

平安京の条坊では、左京二条四坊三保一四町の東側及び東京極大路上に位置し、平安中期以降は大炊御門東京極おおいのみかどひがしきようごくの南西の地。

鎌倉時代、後鳥羽土御門・順徳三上皇の居処となった、大炊御門京極殿が存在した(「百錬抄」元久一年七月一七日・建保二年一一月三〇日・承久三年六月一九日条)


松本町
まつもとちよう

[現在地名]西区南堀江みなみほりえ四丁目

玉手たまで町の南に続く両側町。新玉造しんたまつくり八町の一町で、大津おおつ町といったが、延宝年間(一六七三―八一)松本町となる(初発言上候帳面写)。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数二五・役数二九半役で、うち年寄分一役が無役。


松本町
まつもとちよう

下京区猪熊通四条下ル

南北に通る猪熊いのくま(旧猪熊小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条二坊一保一町の西側と同八町の東側にあたり、平安中期以後は猪熊小路四条大路の南の地。「祇園社記」の「祇園会山ほこの次第」に応仁の乱前の分として、「一、あしかり山 四条いのくま」とあり、当町近辺から芦刈山が出た。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「松下町」、寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図に「松本町」と現町名を記す。しかし寛永一八年以前平安城町並図をはじめとする民間刊行の木版図には「かちや町」と記しており、両者が併用されたことを示す。


松本町
まつもとちよう

中京区先斗町通三条下ル四丁目

かも川の西側に位置し、南北に通る先斗町ぽんとちよう通に西面する。

町名は、筆描図系では、寛文末洛中洛外大図に「松本丁」とみえ、以降変化はない。木版図系では、正徳・享保間京大絵図に「マツモト丁」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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