松永村(読み)まつながむら

日本歴史地名大系 「松永村」の解説

松永村
まつながむら

[現在地名]日南市松永

殿所とのところ村の北東に位置し、北は大藤おおふじ(現北郷町)、南東は上東弁分かみひがしべんぶん村。北西に接して上東弁分村の飛地川津留かわづる(川鶴、現上松永)がある。蛇行しながら南に流れる広渡ひろと(東川)の左岸にあたり、水害に見舞われることもあったが、水利はよかった。大藤村境の松永堰で広渡川からひく用水松永溝は当村および下流域の上東弁分村・下東弁分村・益安ますやす村・平山ひらやま村を潤した。また大藤村境から当村に入り、松永溝に沿って上東弁分村へ至る間道が通じていた(日向地誌)

当村および上東弁分村・下東弁分村の三村は古くは一村で東弁分村と称していた。寛永一三年(一六三六)飫肥藩三代藩主伊東祐久が家督を相続した際、弟祐豊(すでに二千俵取の旗本であった)南方みなみかた(二千石、現宮崎市)と東弁分村のうち松永(一千石)を分知したことから旗本伊東祐豊領として当村が成立。その後明暦三年(一六五七)には四代藩主伊東祐由が弟祐春に当地を除いた東弁分村のうちから一千七八石など都合三千石を分知、祐春領が上東弁分村、引続き飫肥藩領であった残りの地が下東弁分村となり、旧東弁分村は三村に分立した。なお検地古今目録(日向国史)によると、慶長一〇年(一六〇五)には東弁分村として高二千六六〇石余・田畑屋敷一七八町六反余であった。元禄二年(一六八九)祐豊の子祐賢の代に、改めて廩米五千俵を拝領、これと引換えに当村および南方村幕府領となった。

松永村
まつながむら

[現在地名]福山市松永町・松永町一丁目・南松永みなみまつなが町一―四丁目

今津いまづ村の東南に位置し、東北から東は村・柳津やないづ村、南は松永湾に面する。当村は塩田の開発に伴って成立した村で、万治三年(一六六〇)もと水野氏家臣本庄重政が神村・柳津両村沖の干拓に着手、まず堤を築いて塩場を開き、街を設けて商人を招き、寛文七年(一六六七)には塩田築調工事も終わり、幕府の許可を得て松永と命名した(承天寺鐘銘)。松永塩田の成立時期について、慶応元年(一八六五)の郷中覚書(福山市立図書館蔵)には「右塩浜出来寛文二歳也」とある。一方、重政の子重尚(随幻)の随幻覚書(承天寺文書)には「四代水野美作守殿代、沼隈郡高須村の新涯取立、其已後寛文七丁未年松永開闢仕、塩浜に致し候」とある。松永新涯が完成したのが寛文二年で、その後、新涯のなかに入浜塩田の築調工事が進められ、実際に製塩が行われるようになったのが七年とみるべきであろう。寛文七年に塩戸税銀一〇〇枚を藩に献じているのも(随幻覚書)、この年に全塩田の生産が軌道に乗ったことを物語っている。

随幻覚書に「塩浜、金山同前の事故、松永住人諸方より入込居申候」とあるが、塩田開発を契機に、松永には塩田のため、各地から人が集まり急速に町も形成されたと思われる。

松永村
まつながむら

[現在地名]隼人町松永など

日当山ひなたやま嘉例川かれいがわ村の南東にあり、山間部と霧島川沿いの平地部からなる。南西流する霧島川は南端で西境を南流してきた天降あもり川と合流する。南は同郷東郷とうごう村。松長とも記される。大隅国建久図田帳に桑東くわのとう郷の正八幡宮(現鹿児島神宮)領内の国方所当弁田中の公田の一つとして松永七町がみえ、税所藤原篤用所知とある。在庁官人税所氏の有する在庁別名であった。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では松永名は一二町とある。文永九年(一二七二)一〇月二五日の関東下知状(台明寺文書)によれば、税所義祐は桑東郷松永名などの正八幡宮講経免の沽却田地について本主の状を帯していることなどを理由に幕府に宛行を申請、同七年御教書を得ていたが、同九年幕府の裁許により義祐は神領を押領したとされ、正八幡宮の進止が確認されている。

松永村
まつながむら

[現在地名]川島町松永

下小見野しもおみの村の北東、市野いちの川の右岸にあり、南は加胡かご村。永禄一〇年(一五六七)七月一九日の太田氏資書状(平林寺文書)に「平林寺末寺小見之内、於安楽寺并大安寺」とあって、地内大安だいあん寺が岩付いわつき(現岩槻市)平林寺に安堵されているが、当地は中世、小見野郷のうちであったと思われ、近世には小見野一〇ヵ村の一。田園簿では松長村とあり、田高六六石余・畑高一〇石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一三五石余、反別は田一三町一反余・畑八町六反余。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(寛政一〇年「済口証文」鈴木家文書など)、天保一三年(一八四二)領地替によって再び川越藩領となった(弘化二年「大囲堤御普請願」同文書など)

松永村
まつながむら

[現在地名]小矢部市松永

礪波山となみやま丘陵東麓、蓮沼はすぬま村の南に位置。中世の松永庄の遺称地。寿永二年(一一八三)五月、小松中将維盛ら平家の北陸追討軍が越中に進むと聞いた木曾義仲は、手勢を七手に分け、そのうちの一手を松長まつなが(松永)柳原やなぎはらなどに引隠したという(「平家物語」巻七)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「町長村」とみえ、役家数四、高木組に属する。正保郷帳では高三三八石余、田方一六町五反余・畑方六町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三五六石・免四ツ八歩、小物成は山役五八匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報