日本歴史地名大系 「南方村」の解説
南方村
みなみかたむら
- 宮崎県:延岡市
- 南方村
南方村
みなみがたむら
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
当村は初め久米郡に所属したが、寛文一二年(一六七二)
南方村
みなんかたむら
現内之浦町のほぼ中央にあり、北東は内之浦湊、南東は海。北寄りを東流する
南方村
みなみかたむら
- 宮崎県:串間市
- 南方村
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
- 石川県:珠洲市
- 南方村
正保郷帳に村名がみえ、高五一五石余、田三二町六反余・畑一町六反余、新開高四〇石余(免二ツ一歩)。別に貼紙に二一六石余とある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五八二石、免六ツ、小物成は山役三一一匁、鳥役三匁(出来)・猟船櫂役一五匁(うち一〇匁が出来)、なお敷借本米・利足は二四石余であった(三箇国高物成帳)。寛文元年の塩士年貢米事(桜井文書)によれば、村高五八二石余すべてが塩士年貢米高(浜方高)で、定納口米のうち二三六石余が米で一四〇石余が籾で納められている。文政一三年(一八三〇)の算用帳(山下文書)によれば草高五九四石余、定納口米三九六石余・春秋夫銀四九九匁、定式塩手米六四〇石余・追塩手米一五〇石・追々塩手米三六石余でこの代塩は八千二六五俵、これに対する出来塩が八千三〇九俵で四四俵の過上塩をみている。
南方村
みなみかたむら
栗原郡東部にあり、東と南は
南方村
みなみかたむら
南方村
みなみかたむら
- 宮崎県:西都市
- 南方村
寛政六年(一七九四)の年貢割付状(穂北支所文書)によると明和七年(一七七〇)から三〇年間の定免で、本年貢は真米五七八石余、小物成には定納の山手・樹木・藁縄・筵・苫役、不定納の紙漉・鍬柄細工・鍛冶屋・紺屋・博労・請酒場・高札役があり、野手銀・網簗役や高掛り三役などを合せて代銀一貫二〇〇匁余を納めている。
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみかたむら
慶長六年(一六〇一)の検地で高九四七・六三石、その後新開高が加えられ九五三・三三石となる。明知・給知入交じりで、天明元年(一七八一)までの免は上り詰七・一、下り詰三・四五、享保一七年(一七三二)の虫害凶作の秋免は〇・七五、天明二年より定免六・六一(国郡志下調書出帳)。
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみかたむら
- 宮崎県:宮崎市
- 南方村
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみかたむら
南方村
みなみがたむら
集落の西部一帯には条里的遺構を残す水田地帯が広がっている。鎌倉時代には塩川牧に含まれていたと推定される。
慶安元年(一六四八)の信州
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみかたむら
- 宮崎県:宮崎市
- 南方村
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
なんぼうむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
南方村
みなみがたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報