南方村
みなみかたむら
[現在地名]延岡市岡元町・小川町・細見町・舞野町・平田町・高野町・小峰町・松山町・野田町・野地町・天下町・貝の畑町・吉野町・行縢町・西階町
岡富村の西に位置し、行縢山南東麓の山地・丘陵地および大瀬川北岸沿いに開けた平地に立地する。高千穂往還が通る。応永二六年(一四一九)三月八日に書写された今山八幡宮旧記(今山八幡宮文書)の今山八幡宮由来によれば、平安時代末の今山八幡宮司田部(土持)宣綱は「上津・舞野・岡富」のうちの八段を同宮の大般若田として寄進している。舞野は現舞野町付近に比定される。同旧記のうち天永元年(一一一〇)一一月日に封郡司田部宿禰が記した御神事并祭会料米下行引付によれば、地内に比定される長田(永田)が正月朝拝神事の東舞一〇人のうち一人を、一月一三日心経会および五月五日神事での流鏑馬一〇番のうち一番を、一〇月放生会では浜秣・茅草各五〇束を頭役としてそれぞれ負担している。文和元年(一三五二)一一月二八日の畠山頼顕寄進状(大慈寺文書)では「臼杵院南方半分」が志布志(現鹿児島県志布志町)の大慈禅寺に寄進されている。地内経塚山にあった石碑(日向ノ金石文)には天文一三年(一五四四)一一月八日の年紀と「日向国臼杵院」の銘があり、南方村の村名は臼杵院南方の遺称とみられる。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳に「臼杵南方 百五十町」とある。天正一六年八月四日の日向国知行方目録には「八拾町 南方」とみえ、高橋元種(のち延岡藩主)に宛行われている。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]川内町南方
重信川が形成した扇状地の扇端部に位置し、金比羅道の南側にある。村の中心部南方を表川が西流して重信川に合流し、表川の南は山地で塩ヶ森(五二四・九メートル)がある。北は北方村に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の久米郡の項に「南方村 柴山有、小川有」とみえ、村高一千三〇石三斗三升七合、うち田九九九石一斗八升二合、畑三一石一斗五升五合とある。口碑によれば来見駅(現周桑郡)・川上駅(現北方)・久米駅(現松山市)を結ぶ駅路(現国道一一号旧道)の南にあるところから、南方とよばれたという。
当村は初め久米郡に所属したが、寛文一二年(一六七二)浮穴郡に編入された。「浮穴郡南方村大手鑑」に「南方村久米郡より浮穴郡江御結 寛文十二子年正月十一日」とある。
南方村
みなんかたむら
[現在地名]内之浦町南方
現内之浦町のほぼ中央にあり、北東は内之浦湊、南東は海。北寄りを東流する小田川が海岸線近くで広瀬川に合流する。内之浦郷の地頭仮屋と麓が置かれた。麓を貫く道路を竪馬場とよび、地頭仮屋はその馬場の南東端にあった。古くは南浦村と称し、寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では南浦村の高九四五石余。元禄国絵図にはほかに南浦村のうち内之浦村が記される。「三州御治世要覧」には南方村とあり、延享(一七四四―四八)頃の高一千三五七石余。旧高旧領取調帳によれば高一千四三五石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では家数三五〇軒、うち本村一一八軒・永坪六軒・内之浦村一六軒・内之浦町二一六軒、ほかに郷士二四軒とある。内之浦湊は当村に付属する湊で浦町は麓地区の南東にあり、広瀬川および内之浦湾に面し、八坂神社を祀っていた。恵比須・観音が祀られている恵比須の角と称する十字路付近が町場の中心地で、ここから四方に町屋敷が広がっていた。麓との境の垂れん口と称する場所には、九尺の柱二本を立て、それに注連縄を張って町場の入口を標示した(内之浦町史)。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]串間市南方・串間
福島川河口左岸に位置し、北に西方村・北方村を挟んで飛地(串間地区)がある。また下弓田地区の地先海上に当村に属する鬢垂島が浮ぶ。近世初期の南方(郷・村)はのちの領知目録上の南方村・奈留村・大平村を含み、江戸時代の南方郷もこの三村で構成された。郷庄屋(寛文七年以前の称は催司)は当村に居住し、高鍋藩人給帳によると、寛永一五年(一六三八)「福島催司」の南方の覚之丞に知行一〇石が与えられている。慶長一三年(一六〇八)一二月吉日の福島院南方村之内坪付帳(森家文書)によると、一〇石定の田畑屋敷地が森神左衛門の知行となっている。日向国覚書によると高一千二三九石余。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)では一千二五〇石余。年未詳の福島院中御牧并里牧牛馬焼印改帳(県立図書館蔵)によると、南方郷には焼印一四丁が認められていた。河口に立地する金谷地区の対岸は西方村今町で、金谷は当村に属しながら人家は今町老名の支配であった(→西方村)。金谷は浦としても発展して家並が続き、文化六年(一八〇九)七月には四二軒を焼く大火があった(続本藩実録)。このほか南方郷に関する火災の記録として、安永八年(一七七九)二月「塩屋原村」焼失一一軒、文化元年一一月「右大内村」焼失二一軒(同書)などがある。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]本郷町南方、竹原市小梨町
上北方村・下北方村の南に接し、鎌倉時代に二分された沼田庄梨子羽郷の南半にあたる。村の北部を蛇行して東流する沼田川支流尾原川と、その支流域に展開する村で、棚田が発達し、溜池も多い。北東部は低地が広がり水害を受けやすいが、他の地域は逆に水が不足しがちであった。尾原川沿いに山陽道が通り、尾原川の支流三次川沿いに三次藩の海港であった忠海(現竹原市)に至る三次往還が縦貫する。尾原川の北岸丘陵部にある御年代古墳・貞丸一号古墳・同二号古墳に代表される後期古墳が村内各地に構築されている。平坦部には条里制が施行された形跡もあり、沼田庄開発領主沼田氏の基盤の一部として早くから開発された。北部の楽音寺山南山麓に沼田氏の氏寺楽音寺があり、楽音寺谷を中心に二院一八坊を擁して栄えた。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]珠洲市上戸町南方
寺社村の南西にあり、内浦街道が通る。垣内に「三州志」に載る名ヶ谷・山田・随念・神道・石坂のほか、穴釜・竹中・泉・郡浜などがある。近世初頭は直郷上戸に含まれていたが、元和六年(一六二〇)頃の検地に伴う村切で当村名が定められたと考えられる。
正保郷帳に村名がみえ、高五一五石余、田三二町六反余・畑一町六反余、新開高四〇石余(免二ツ一歩)。別に貼紙に二一六石余とある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五八二石、免六ツ、小物成は山役三一一匁、鳥役三匁(出来)・猟船櫂役一五匁(うち一〇匁が出来)、なお敷借本米・利足は二四石余であった(三箇国高物成帳)。寛文元年の塩士年貢米事(桜井文書)によれば、村高五八二石余すべてが塩士年貢米高(浜方高)で、定納口米のうち二三六石余が米で一四〇石余が籾で納められている。文政一三年(一八三〇)の算用帳(山下文書)によれば草高五九四石余、定納口米三九六石余・春秋夫銀四九九匁、定式塩手米六四〇石余・追塩手米一五〇石・追々塩手米三六石余でこの代塩は八千二六五俵、これに対する出来塩が八千三〇九俵で四四俵の過上塩をみている。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]南方町
栗原郡東部にあり、東と南は迫川、西に丘陵の先端が突き出す水田単作地帯。北方村(現迫町)に遅れて開発され、その南にあることから起こった地名と伝えるがつまびらかではない。南方板倉・東郷新田・山成・本郷天沼・同細川に建治三年(一二七七)を最古とする鎌倉中期から室町末期にかけての板碑が数基あり、古くから人の住んでいたことをうかがうことができる。南方村は本郷・東郷・西郷の三つの端郷をもつ大村で、それぞれに肝入が置かれている。本郷はいわゆる佐沼郷の中心であったと推定され、北に佐沼町(現迫町)が位置している。東郷は本郷の東の意味で(地図上は南)、古くは西郷の一部であったと伝える。西郷は本郷の西に位置する。丘陵地は西郷地区にあり、村のほぼ西半分を占める。寛永検地の時はまだ端郷が独立しておらず、村高は五〇五貫九三五文で、その内訳は佐沼津田氏家中関係一四〇名で一四二貫三三九文、高清水(高泉)主計家中関係二八名で三四貫三五六文、本百姓一六一名で三二九貫二四〇文である。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]薩摩町中津川
西流する川内川支流南方川中流域に広がる田地帯の中心にある。大村郷に属した。東から南を黒木郷黒木村(現
答院町)、西を佐志郷広瀬村(現宮之城町)、北を大村郷北方村と接する。近世初期には中津川村と称し、一村であったが、一七世紀半ばから一八世紀初頭頃南方村と北方村とに分村した(三州御治世要覧)。「三州御治世要覧」では南方村とあり、延享(一七四四―四八)頃の高一千一〇九石余。旧高旧領取調帳では高一千四九石余。天保三年(一八三二)には村の再編を目的とした御救門割とよばれる検地・門割が実施されている(「田地方万留」東京大学史料編纂所蔵)。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]西都市南方
穂北村の南に位置する。集落の多くは一ッ瀬川(穂北川)の南部に広がる田園地帯のうちにあり、一部は同川の北岸にも展開。米良街道が南の童子丸村との境を通る。古くは穂北村のうちであったが、元禄五年(一六九二)以前に分立して一村になったと考えられる。近世の領主の変遷は穂北村と同じ。元禄一二年の年貢割付状(穂北支所文書)では高一千九九石余・新田畑八一石余、天保郷帳では高一千一九二石余。
寛政六年(一七九四)の年貢割付状(穂北支所文書)によると明和七年(一七七〇)から三〇年間の定免で、本年貢は真米五七八石余、小物成には定納の山手・樹木・藁縄・筵・苫役、不定納の紙漉・鍬柄細工・鍛冶屋・紺屋・博労・請酒場・高札役があり、野手銀・網簗役や高掛り三役などを合せて代銀一貫二〇〇匁余を納めている。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]岡山市南方一―五丁目・岩田町・国体町・奉還町一丁目・絵図町・清心町
南流する旭川右岸にあり、東方対岸は西河原村。同村・竹田村への渡船があった。南は岡山城下北端と町続きで、文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、藩上屋敷・内匠頭(鴨方藩主池田氏か)下屋敷・家老伊木豊後守下屋敷・服部頼母下屋敷・下方平馬下屋敷・郡方御用屋敷等があり、東の旭川端に門田村東照宮の御旅所があった(吉備温故秘録)。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]千代田町南方
丁保余原村の南に木次村を囲むようにして位置する。集落は、村内を北流する出原川沿いや南東流する根谷川上流沿いに展開する。村名は文明三年(一四七一)一一月二五日付の足利義政御判御教書案(吉川家文書)に「南方村南方出羽守跡」とみえ、吉川元経に恩賞として与えられている。以後、吉川氏の所領として幾度か史料にみえる。
慶長六年(一六〇一)の検地で高九四七・六三石、その後新開高が加えられ九五三・三三石となる。明知・給知入交じりで、天明元年(一七八一)までの免は上り詰七・一、下り詰三・四五、享保一七年(一七三二)の虫害凶作の秋免は〇・七五、天明二年より定免六・六一(国郡志下調書出帳)。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]吉永町南方
金剛川の左岸に位置し、村の北西端で金剛川と八塔寺川が合流する。北は吉永中村、南は閑谷新田(現備前市)。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に吉永内として村名がみえ、物成九九石余、夫米五石余。寛永備前国絵図によれば高二二六石余。「備陽記」では田畑三六町五反余、家数六八・人数五四二で枝村として柏原がみえる。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三九四石余、家臣四名の給地のほか三七石余が蔵入。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]揖斐川町上南方
極楽寺村の西、揖斐川左岸にあり、横蔵寺(現谷汲村)に至る道が通る。中世は揖斐庄の内として推移、観応二年(一三五一)三月日の揖斐庄百姓等申状案(興福寺別当次第裏書)に「揖斐庄北方・南方・三和三ケ保百姓等」とみえる。文明三年(一四七一)閏八月日の紀年をもつ甚目寺(現愛知県海部郡甚目寺町)鐘追銘には「大野郡揖斐庄南方保今坂之御社」とある。豊臣秀吉の蔵入地(代官石田三成)を示す天正一九年(一五九一)四月二七日の近江国・美濃国御蔵入目録(林祝太郎氏所蔵文書)に大野郡南方保一千九三五石余とある。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]宮崎市本郷南方・本郷一―三丁目・希望ヶ丘一―四丁目
北方村の南に位置し、那珂郡に属した。鵜戸街道が通る。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に田吉一ノ宮大宮司分として本郷南方に御供田一段などがみえ、また本郷本宮大明神領として本郷南方のうち二反など合せて田数四反がみえる。天正一六年(一五八八)八月五日の日向国知行方目録には南方一〇〇町とみえ、伊東祐兵に宛行われている。検地古今目録(日向国史)によると、慶長一〇年(一六〇五)とみられる高一千九九二石余・反別一八三町二反余で、寛永一三年(一六三六)北方村の高のうち七石余が当村の高に入れられて高二千石とされ、同年飫肥藩三代藩主伊東祐久が襲封の際に弟祐豊へ分知された。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]五箇村南方
郡村の西方に位置し、北方村境を重栖川が流れる。福浦・蔵田などの海岸部にある技郷を含む広域の村。古く重栖川流域は潟湖であり、川の砂洲で南北に分れたことから南方・北方の地名があるという。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田二二六石余・一九町九反余、畑五〇石余・三三町五反余、ほかに新田畑四三石余・六町一反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)四九匁・漁請役二〇匁・山手塩一三〇俵役九一匁・柄油三斗役六匁・和布六束役一匁二分・海苔六升役一匁・小鯛八〇枚役三匁二分・鰤三本役三匁六分・核苧一貫四九〇目役三匁九分・牛皮二枚役丁銀五匁・茶六袋役九分、串鮑一連六串役は米三斗五升余で代納。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]智頭町南方
智頭宿の南、千代川左岸に位置し、背後に穂見山(九七七メートル)がそびえる。枝村に岡田・米井・船山の三ヵ村がある。かつては三ヵ村ともそれぞれ一村をなしていたが、江戸時代に入って当村に属したという(因幡志)。拝領高は六三〇石余。三沢氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高六九〇石余、毛付高七二一石余、本免五ツ六分、同年の物成高三六五石余、ほかに藪役銀四分五厘・川役米九斗が課されていた。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]東淀川区東中島一―二丁目、淀川区西中島一―五丁目
山口村の南にあり、村域の過半は現淀川区に入るが、集落部は現東淀川区に属する。寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の「中島所々年貢茶目録」に「柴島南方」とみえ、四四斤半三〇匁を茶年貢として崇禅寺に納めている。村名はこの「柴島南方」に由来すると考えられる。元和元年(一六一五)から三年までは、のち播州林田藩主となった建部政長、同じくのち播州新宮藩主となった池田重利領。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]丸子町大字塩川
依田窪の北東部、塩川郷(塩川村一帯)のうち、佐久道(現県道芦田―大屋線)に沿った谷口にあった村。東は羽毛山村(現北佐久郡北御牧村)、西は長瀬村、南は藤原田村、北は坂井村。
集落の西部一帯には条里的遺構を残す水田地帯が広がっている。鎌倉時代には塩川牧に含まれていたと推定される。
慶安元年(一六四八)の信州佐久郡小県郡之内小諸領郷村帳(依田文書)には村名がなく、元禄郷帳には「塩川南方村」とあるから、元禄年間(一六八八―一七〇四)までに塩川村から分村したといえる。村内の小字松葉の東方塩川沢を越えた丑田原地籍を大門田とよび、大門村(現長門町)の児玉家の過去書には「市左衛門政常三四郎寛文四年甲辰三月二十四日死、法名了峰道機、小諸城主青山因幡守御代、塩川丑田原新田開発候也」とあって、慶安年間から寛文二年(一六六二)の間に塩川上堰をここまで延長し開発したという。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]岡山市古都南方
目黒村の北、シャシャ木山(一七五・一メートル)南西麓に位置する谷間に集落があり(備前記)、北は北方村。慶長五年(一六〇〇)一一月一一日の小早川秀秋宛行状(県立博物館所蔵文書)で、上東郡南方村九〇四石余など計五千石が木下俊定に与えられた。寛永備前国絵図では高一千二三一石余。正保郷帳には水損少と注記があり、枝村に寺坂村・室山村が載り、「備前記」では枝村として室山・寺坂・焼剥をあげる。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]小倉南区南方一―五丁目・下南方一―二丁目・南方・徳力一丁目・同六丁目・徳力新町一―二丁目・蒲生五丁目・徳力団地・守恒本町三丁目・高野一丁目・同四丁目・長尾一丁目・同五丁目
北方村の南西、紫川のおもに右岸にある。地名は紫川の中流を南北に分け、上流方を南県、下流筋を北県としたことによるという(企救郡誌)。元和八年人畜改帳に南方村とみえ、御蔵納分の高四三七石余、給人二人分の高六〇一石余の二筆で、家数一二三、人数二二〇(うち百姓一〇・名子一六・社人二)、牛三八・馬一九。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]菊陽町原水
入道水村・柳水村の南に位置し、北側を東西に大津街道(現国道五七号)が通る。白川右岸の段丘面、周囲は瀬田上井手(堀川)懸りの灌漑水路による水田地帯。「熊本藩年表稿」の延宝六年(一六七八)の項に、「大津手永中尾村南方村新町馬場村北方村五ケ村の儀妙解院様御代御仕立成られ為有付諸役御赦免の処最早四十年余に相成に付本高同前諸役相勤申すようとのこと」とあり、寛永年間(一六二四―四四)細川忠利の代に仕立てられた村。「国志草稿」には、「入道水ノ内新地方也」とあって村高の記載はない。「国誌」に高一三七石五斗余とあり、合志郡大津手永に属する。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]黒瀬町南方
宗近柳国村の西方に位置し、村域の大部分は黒瀬川東側の河岸平野と、その東および南の標高三〇〇―四〇〇メートルの山地が占める。西は乃美尾村。「芸藩通志」に「当村昔は三永村とよびしといふ、里民の家、伝来の古文書にも三永方とあり、訓の転じたると思はる」とある。三永方の地名は大永三年(一五二三)八月一〇日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)に、三永村(現東広島市)に続けて「三永方四十貫 小郡代領也」とある。ただしそれより一四年以前の永正六年(一五〇九)八月一三日付の大内義興下文(千葉文書)に「同三永方田口村内仏師名拾貫文足」とあり、これは現東広島市域で下三永村の東隣田口村のことと思われるから、三永方は三永村東方の地であり、「芸藩通志」の説には疑問もある。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]大垣市中川町
揖斐川右岸と杭瀬川左岸の平坦地中央にあり、大垣輪中の北部に位置する。東は楽田村。中世には伊勢神宮領中河御厨(中川庄)の内にあり(新撰美濃志)、万治二年(一六五九)南方村から中川村と改称したが(座右秘鑑)、以後の郷帳では南方村とみえる。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳では村高一千一七四石余。正保郷帳では「中川ノ南方村」とみえ、田高五五一石余・畑高一一四石余・桑木高七斗余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳には中川村とみえ、高七五四石余。
南方村
みなみかたむら
[現在地名]宮崎市南方町
池内村の東に位置する。宮崎郡に属し、北は那珂郡新名爪村、北東は同郡芳士村。芳士村から池内村に至る往還道が通る。中世には宮崎庄に含まれた。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳には宮崎南方一〇〇町とある。天正一六年八月四日の日向国知行方目録には南方八〇町とあり、高橋元種領となっている。慶長五年(一六〇〇)宮崎城に攻め寄せた伊東方の将稲津掃部助は、当村南西の奈古山に陣を張ったという(日向地誌)。同城を攻め取った伊東方は佐土原勢と合戦となり、「奈子山ノカケヨリ」旗を出して敵を欺き敗走させている(日向記)。領主の変遷は上別府村と同じ。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]山陽町南方
斉富村の南、岩尾山北の麓に集落がある。慶長七年(一六〇二)九月三日の小早川秀詮朱印状(黄薇古簡集)で「南方村」のうち一五石が岩田勝兵衛に宛行われている。同一〇年備前国高物成帳(備陽記)では鳥取庄に村名がみえる。寛永備前国絵図では高三一五石。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高三五四石余。貞享元年には荒などを引いた残高三二八石余。「備前記」によれば枝村は宇根で、東部にうね山御林があった。享保六年(一七二一)には田畠二一町一反余、家数五八・人数二九九、池七(備陽記)。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]神戸町南方
杭瀬川左岸に位置し、東は八条村、北は北方村。「新撰美濃志」に「郡村記に平野荘西保村と見えたり」と記されることから西保を南北に分けて北を北方村、南を南方村と名付けたとされる。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に南方西ノ方村とみえ村高六六九石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳には南方西保村とある。正保郷帳には「西ノ保南方村」とみえ、田高五六三石余・畑高九五石余。元禄郷帳では南方村。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]瀬戸町南方
大内村の北に位置し、吉井川の西側で、三谷山(二二六メートル)北麓の村。吉井川の氾濫でできた大沼の南方に位置していたことから村名が生じたという。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の吉岡庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高九三五石余。「備陽記」によると山寄り川端の集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程四里二三町。田畠五五町余、家数一〇〇・人数五八九、池三。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高一千四三〇石余、蔵入と家臣一七名の給地。
南方村
なんぼうむら
[現在地名]黒羽町南方
南流する武茂川最上流域にあり、南は川上村と接する山間の村。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「南方」がみえ、須佐木・川上とともに三一四石九斗五升とある(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。以後黒羽藩領。慶安郷帳に村名はみえず、寛文四年(一六六四)の黒羽藩領知目録(黒羽町蔵)に南方村とある。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]上越市南方
十二之木村の西に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「山浦分此外五方分南方村 下」とみえ、本納一七五石七斗五升五合・縄高三二九石八斗七升四合、家一三軒・五六人。正保国絵図に村名がみえるが高は不記載。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳によれば高三四九石九斗余。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]松本市入山辺 南方
山辺谷を西に向かって流れる薄川の南で、北斜面の村である。
「信府統記」によると、「御朱印高二百七拾六石二斗七升」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は三〇〇石二斗二升一合六勺である。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]大野町南方
南領家村の南東にある。北方の大衣斐村の枝郷であった。慶長郷帳・正保郷帳では大衣斐村の内に含まれていたと考えられる。元禄郷帳に村名がみえ、高四四九石余で旗本青木領。
南方村
みなみがたむら
[現在地名]竹原市小梨町、豊田郡本郷町南方
⇒南方村(豊田郡)
南方村
みなみかたむら
川口村の北にある。当村域の過半は現淀川区に属するが、そのほとんどが耕地であり、集落部は現東淀川区に属する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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