板鼻宿(読み)いたはなしゆく

日本歴史地名大系 「板鼻宿」の解説

板鼻宿
いたはなしゆく

[現在地名]安中市板鼻一―二丁目

中山道の宿駅で江戸日本橋から一四番目にあたり、東の一三番高崎宿、西の一五番安中宿の間に位置する。中山道上州七宿のうちでも最も栄えたといわれる。

〔中世〕

板鼻庄あるいは八幡はちまん庄に属しており、現市域の東方、板鼻八幡宮(現高崎市の八幡八幡宮)大聖護国だいしようごこく(現高崎市)近くに中心があったと考えられる。奥州方面に抜ける東山道(東道)、信濃から武蔵を経て鎌倉に向かう鎌倉街道、碓氷うすい川・からす川から利根川流域にわたる水上の道が交差する要衝であり、交通集落・宿町として発展する一方、領主層らが集住する地方政治都市として発達した。「義経記」巻二(義経陵が館焼き給ふ事・伊勢三郎義経の臣下にはじめて成る事)によると、奥州平泉に向かう源義経一行は、板鼻においてのちに臣下となる山賊伊勢三郎義盛に出会っており、また「曾我物語」巻五(那須野の御狩の事)によれば、源頼朝一行は信濃三原から下野那須に狩場を移動する際「板鼻の宿」を経由している。このように古代以来の東山道の宿駅であったが、一方「宴曲抄」正和三年(一三一四)八月の「南無飛龍権現千手千眼日本第一大霊験善光寺修行」にみられるように、武蔵国児玉こだま郡を経て鎌倉に入る鎌倉街道の分岐点であった。同書によると板鼻周辺の景観は「豊岡かけて見わたせば、ふみとゞろかす乱橋の、しどろに違坂(板)鼻」というもので、烏川・碓氷川などの合流するデルタ地帯、泥流の堆積地に散り懸りに橋がわたしてあったことがわかる。謡曲「鉢木」に「墨の衣の碓氷川、下す筏の板鼻や、佐野のわたりに着きにけり」と記される。早くから水運も発達した上信国境の物資集積地であったとみられる。

治承・寿永内乱時に源頼朝が「上野板橋(鼻)ノ宿」まで木曾義仲勢への討手をさしむけたこと(「神明鏡」寿永二年三月)、新田義貞挙兵に際して甲斐・信濃源氏五千余騎が八幡庄に入ってきた事実(同書元弘三年)、また結城合戦時に、結城方与党の「信州之勢出張」をくいとめるため長尾景仲が板鼻に着陣したこと(永享一二年一二月六日「上杉憲実書状」安保文書)などからわかるように、上信国境の要衝としてしばしば軍勢が駐屯した。一三世紀中頃のものと思われる正月三〇日の関東御教書写(「榊葉集」所収)によると、上野国板鼻別宮(八幡八幡宮)の預所は上野国守護安達景盛であり、建武四年(一三三七)には八幡庄以下が守護領として上杉憲顕に預けられている(同年一一月二日「高師直奉書」上杉家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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