日本歴史地名大系 「板鼻宿」の解説
板鼻宿
いたはなしゆく
中山道の宿駅で江戸日本橋から一四番目にあたり、東の一三番高崎宿、西の一五番安中宿の間に位置する。中山道上州七宿のうちでも最も栄えたといわれる。
〔中世〕
板鼻庄あるいは
治承・寿永内乱時に源頼朝が「上野板橋(鼻)ノ宿」まで木曾義仲勢への討手をさしむけたこと(「神明鏡」寿永二年三月)、新田義貞挙兵に際して甲斐・信濃源氏五千余騎が八幡庄に入ってきた事実(同書元弘三年)、また結城合戦時に、結城方与党の「信州之勢出張」をくいとめるため長尾景仲が板鼻に着陣したこと(永享一二年一二月六日「上杉憲実書状」安保文書)などからわかるように、上信国境の要衝としてしばしば軍勢が駐屯した。一三世紀中頃のものと思われる正月三〇日の関東御教書写(「榊葉集」所収)によると、上野国板鼻別宮(八幡八幡宮)の預所は上野国守護安達景盛であり、建武四年(一三三七)には八幡庄以下が守護領として上杉憲顕に預けられている(同年一一月二日「高師直奉書」上杉家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報