林洞海(読み)はやしどうかい

精選版 日本国語大辞典 「林洞海」の意味・読み・例文・類語

はやし‐どうかい【林洞海】

  1. 幕末明治医者。名は彊。字は健卿。洞海は号。豊前国福岡県出身蘭学を学び、江戸オランダのワートルの「薬性論」を翻訳、後に大阪医学校校長となる。文化一〇~明治二八年(一八一三‐九五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林洞海」の意味・わかりやすい解説

林洞海
はやしどうかい
(1813―1895)

幕末の医官、薬学者。豊前(ぶぜん)国(福岡県)小倉(こくら)の出身。名は彊。字(あざな)は健卿。20歳で江戸へ出て足立長雋(あだちちょうしゅん)に蘭方(らんぽう)医薬を学ぶ。先輩佐藤泰然とともに長崎で蘭医ニーマンJohannes Erdewin Niemann(1796―1850)に4年間師事。江戸に戻り、泰然娘婿となり両国薬研堀(やげんぼり)の医院を継ぐ。洞海訳『ワートルの薬性論』(1850)は、薬品を生理作用・医治効能に分類解説し、従来の辞書的分類の類書とは一頭地を抜く著訳で、1856年(安政3)刊行後広く読まれた。1858年洞海ら江戸蘭方家が神田に種痘所を創設。同年、将軍家定が重態に陥り、漢方侍医が匙(さじ)を投げ、蘭方医が将軍侍医に起用され、これにより幕府の蘭方禁令が解かれた。1861年(文久1)種痘所が幕府の西洋医学所となり、洞海、大槻俊斎(おおつきしゅんさい)が長となった。

[根本曽代子]

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改訂新版 世界大百科事典 「林洞海」の意味・わかりやすい解説

林洞海 (はやしどうかい)
生没年:1813-95(文化10-明治28)

幕末・明治初期の洋方医。豊前国小倉に生まれ,名は彊,字は健卿。1832年(天保3)江戸に出て蘭方医足立長雋(ちようしゆん)に師事,さらに同門の佐藤泰然とともに長崎に遊学して蘭方医学を深め,江戸に帰りワートルJ.A.van der Waterの《窊篤児(ワートル)薬性論》を訳し刊行,薬効分類による洋方薬物知識の普及に貢献した。60年(万延1)幕府に出仕,侍医・法眼となり,維新後は静岡藩病院副院長,大学中博士,大阪医学校校長,権大典医を歴任した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「林洞海」の解説

林洞海

没年:明治28.2.2(1895)
生年:文化10.3.3(1813.4.3)
幕末明治期の蘭方医。豊前国小倉篠崎村(北九州市小倉北区)生まれ。名は彊,字は健郷,号は梅仙,堂号は存誠斎。江戸に出て足立長雋の門に入り蘭方医学を学び,2度長崎に遊学。江戸に帰り,同門の佐藤泰然が佐倉に移ったあとの旧宅を譲り受け,泰然の娘を娶って開業した。小倉藩医から幕府医官となり奥医師,法眼に進み,維新後は静岡藩沼津病院副長を務めたのち新政府に出仕,大学中博士,大阪医学校長,権大典医,皇太后付,4等侍医等を歴任した。長男は研海。東京で没し,駒込吉祥寺に葬られた。著訳書に『ワートル薬性論』『内科簡明』(共訳)がある。<参考文献>村上一郎『蘭医佐藤泰然―その生涯とその一族門流―』

(宗田一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林洞海」の解説

林洞海 はやし-どうかい

1813-1895 江戸後期-明治時代の医師。
文化10年3月3日生まれ。江戸で足立長雋(ちょうしゅん)にまなぶ。佐藤泰然とともに長崎に遊学し,ニーマンに師事。万延元年幕府につかえ,のち侍医となり,法眼(ほうげん)にすすむ。維新後は沼津病院副院長,大阪医学校長などをつとめた。明治28年2月2日死去。83歳。豊前(ぶぜん)小倉(福岡県)出身。名は彊。字(あざな)は健卿。訳書にワートル「窊篤児(ワートル)薬性論」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林洞海」の意味・わかりやすい解説

林洞海
はやしどうかい

[生]文化10(1813).小倉
[没]1895. 東京
幕末の蘭方医。天保3 (1832) 年 20歳で江戸に出て足立長雋に入門,同6年から3年間,佐藤泰然に従って長崎で蘭学を学んだ。同 14年,江戸薬研堀で蘭学塾を開く。万延1 (60) 年将軍徳川家斉の病気にあたり,初めて蘭方医を採用の際,その一人にあげられ,侍医法眼となった。研海の父。著書『ワートル薬性論』 (56) 。

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367日誕生日大事典 「林洞海」の解説

林 洞海 (はやし どうかい)

生年月日:1813年3月3日
江戸時代;明治時代の蘭方医。大阪医学校校長
1895年没

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世界大百科事典(旧版)内の林洞海の言及

【アンカラの戦】より

…1402年3月,冬営地カラー・バーグを出発したティムールは,オスマン軍との対決を目指して小アジアに進み,エルジンジャン,シワス,カイセリ,クルシェヒルを経てアンカラに到着,北東郊外のチュブク・オワスに陣を張った。これに対してスルタン,バヤジト1世に率いられたオスマン軍は,トカトから急ぎアンカラに引き返したが,わずか1日の戦いで完敗を喫し,バヤジト1世はティムールの捕虜となり,オスマン朝は一時的に滅亡した。バヤジト1世を伴ったティムール軍と別動隊は,ブルサ,イズニク,イズミルをも攻略し,やがて帰途についたが,その途上の03年3月9日,バヤジト1世はアクシェヒルで病没した。…

【スルタン】より

…これに対してイランにおけるシーア派のサファビー朝では,君主の称号に〈シャー〉を使用した。 オスマン朝におけるスルタン位は,1396年のニコポリスの戦の後,バヤジト1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けられたことに始まり,オスマン王家によって世襲された。その方法にとくに規則は存在しなかったが,事実上,16世紀末までは親から子,17世紀以後は一族の年長者によって相続が行われた。…

※「林洞海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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