幕末の医官、薬学者。豊前(ぶぜん)国(福岡県)小倉(こくら)の出身。名は彊。字(あざな)は健卿。20歳で江戸へ出て足立長雋(あだちちょうしゅん)に蘭方(らんぽう)医薬を学ぶ。先輩佐藤泰然とともに長崎で蘭医ニーマンJohannes Erdewin Niemann(1796―1850)に4年間師事。江戸に戻り、泰然の娘婿となり両国薬研堀(やげんぼり)の医院を継ぐ。洞海訳『ワートルの薬性論』(1850)は、薬品を生理作用・医治効能に分類解説し、従来の辞書的分類の類書とは一頭地を抜く著訳で、1856年(安政3)刊行後広く読まれた。1858年洞海ら江戸蘭方家が神田に種痘所を創設。同年、将軍家定が重態に陥り、漢方侍医が匙(さじ)を投げ、蘭方医が将軍侍医に起用され、これにより幕府の蘭方禁令が解かれた。1861年(文久1)種痘所が幕府の西洋医学所となり、洞海、大槻俊斎(おおつきしゅんさい)が長となった。
[根本曽代子]
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(宗田一)
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…1402年3月,冬営地カラー・バーグを出発したティムールは,オスマン軍との対決を目指して小アジアに進み,エルジンジャン,シワス,カイセリ,クルシェヒルを経てアンカラに到着,北東郊外のチュブク・オワスに陣を張った。これに対してスルタン,バヤジト1世に率いられたオスマン軍は,トカトから急ぎアンカラに引き返したが,わずか1日の戦いで完敗を喫し,バヤジト1世はティムールの捕虜となり,オスマン朝は一時的に滅亡した。バヤジト1世を伴ったティムール軍と別動隊は,ブルサ,イズニク,イズミルをも攻略し,やがて帰途についたが,その途上の03年3月9日,バヤジト1世はアクシェヒルで病没した。…
…これに対してイランにおけるシーア派のサファビー朝では,君主の称号に〈シャー〉を使用した。 オスマン朝におけるスルタン位は,1396年のニコポリスの戦の後,バヤジト1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けられたことに始まり,オスマン王家によって世襲された。その方法にとくに規則は存在しなかったが,事実上,16世紀末までは親から子,17世紀以後は一族の年長者によって相続が行われた。…
※「林洞海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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