日本大百科全書(ニッポニカ) 「大槻俊斎」の意味・わかりやすい解説
大槻俊斎
おおつきしゅんさい
(1806―1862)
幕末期の蘭方医(らんぽうい)。陸前国赤井村星場(宮城県東松島(ひがしまつしま)市)生まれ。名は肇(ただし)、号は弘淵、字(あざな)は仲敏、俊斎は通称。1821年(文政4)江戸に出て川越藩医高橋尚斎の学僕となり、のち水戸藩の支封長沼藩の医師手塚良仙(1801―1877)に入門、先輩湊長安(みなとちょうあん)(?―1838)の紹介で足立長雋(ちょうしゅん)から蘭学を修得。1837年(天保8)長崎に遊学、高島秋帆(しゅうはん)(1798―1866)らに学び、緒方洪庵(おがたこうあん)らを知った。1840年江戸に帰り開業、良仙の娘八十(やそ)と結婚、翌1841年秋帆から痘苗(とうびょう)を得て浅草蔵前(くらまえ)の小児に接種して成功した(江戸種痘の最初という)。1849年(嘉永2)冬には牛痘接種を確信、桑田立斎(りゅうさい)・伊東玄朴(げんぼく)らとともに多数の小児に実施した。1856年(安政3)仙台藩侍医に抜擢(ばってき)された。1857年江戸在住の蘭方医が醵金(きょきん)をして神田お玉が池に種痘館を設立した際は設計を担当、1860年(万延1)には幕府直轄となり種痘所と改称、俊斎は頭取となる。翌1861年西洋医学所と改称、その初代頭取も務め、在任中、回向院(えこういん)で解剖を実施し、シーボルトが再来日のおりは伝習を受けた。1858年(安政5)コレラの流行時、西洋知識に自己のくふうを加えた医療活動を進めた。1861年1月から胃硬結腫(胃癌(がん)?)を病み、翌文久2年4月9日没。法名は弘淵院殿肇焉俊斎居士、墓所は東京都文京区千駄木(せんだぎ)の総禅寺(のち豊島(としま)区巣鴨(すがも)に移転)。顕彰碑が宮城県石巻(いしのまき)市にある。俊斎の編訳書には『沃実烏謨(よじうむ)治験 尼那別爾(になべる)氏経験』(長崎遊学中の訳、未刊)、『銃創瑣言(じゅうそうさげん)』(1854)がある。
[末中哲夫]
『青木大輔著・刊『大槻俊斎』(1964)』