林田村
はやしだむら
綾川の右岸に位置。東は高屋村、南東は神谷村、北東は乃生村に続き、乃生村の東に木沢村がある。北西は海に面する。北に雌山(一六四・四メートル)、南に雄山(一三九メートル)が並び立つ以外、村域のほとんどは平地だが、古代の海岸線は雌山の東側まで入込んでいたとみられる。雌山・雄山の南方および西方にかけては条里遺構が顕著に認められる。古代の阿野郡林田郷(和名抄)の遺称地。同郷は中世にも存続し、郷内の潮入新開・梶取名が史料にみえる。綾川右岸近くに新開・西梶・東梶の地名があり、梶取名・潮入新開の遺称とみて間違いないだろう。寛文年間(一六六一―七三)新開に祇園社(現八坂神社)が奉祀されているが、中世に京都祇園社領であった縁故によるものであろう。このほか当地には崇徳上皇の行在所雲井御所跡、細川清氏と同頼之が対陣した白峰合戦の主戦場跡と伝える三十六の地名がある(→高屋城跡)。
寛永国絵図には林田庄とみえ、脇に「林田郷高合千八百廿壱石三斗」とある。
林田村
はいだむら
[現在地名]津山市林田
津山城下北東に隣接する丘陵地帯に立地し、本村と上之町および城下在住の作人による耕作地である町作地からなる。南は上之町武家・足軽中間屋敷地および商人町と入交じり、西端は南北に宮川が流れ、山北村と接する。嘉元元年(一三〇三)九月二四日、京都青蓮院政所は下文(六波羅蜜寺文書)を出し、貞永元年(一二三二)盛房法師が寄進以来の京都六波羅蜜寺の灯油料所である「美作国林田郷内清正名并安寧院等」が安芸房定助により違乱されているので、寺家の進退に復するよう命じている。翌二年にはこの安寧院は六波羅蜜寺の末寺であることが確認されている(嘉元二年八月一九日「関白家御教書案」同文書)。徳治二年(一三〇七)九月五日、法成寺(跡地は現京都市上京区)の造営料所領安養院雑掌が、安寧院と安養院の同所異名を混同して、安寧院ならびに清正名で苅田狼藉を行ったため、関白九条師教はその濫妨を禁止した(「関白家御教書」同文書)。
林田村
はやしだむら
[現在地名]杷木町林田
池田村の東、筑後川中流の右岸一帯に位置し、南は筑後国生葉郡西原口村(現浮羽町)。中央付近を赤谷川が南流して筑後川へ合流する。当村一帯は筑前・筑後・豊後の国境にあたり、穂坂村・大山村にまたがる針目山には杷木神籠石、秋月氏によって造られた長尾城跡などがある。「続風土記」によると村内に川口村・鵜木村・哭坂村、拝松村(当村と星丸村のうち)があった。小早川時代の指出前之帳では林田村の田二九町一反余(分米三五〇石余)・畠一一町七反余(分大豆五七石余)。
林田村
はやしだむら
[現在地名]八日市市林田町
上村の南東にあり、北東愛知川河岸近くから南の八日市台地にまで広がる大規模な村。愛知川縁には対岸の妹村・中戸村(現愛知郡愛東町)の村地が食込んでいる。長禄二年(一四五八)四月七日、足利義政により京都臨川寺に寄進された鯰江高真旧領のうちに柿御園中郷の林田屋敷田畠林などがあった(同三年四月一九日「室町幕府奉行人連署奉書」臨川寺文書)。戦国期のものと推定される馬足子交名(今堀日吉神社文書)に「はやした」の源六らの名がみえる。
林田村
はやしだむら
[現在地名]姫路市林田町林田
六九谷村の南に位置し、揖東郡に属する。西と南は構村。村の東方を因幡方面へ通じる道が南北に通る。「和名抄」記載の揖保郡林田郷の遺称地とされ、中世には林田庄に含まれた。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に村名がみえ、当村の四四八石余などが木下家定に宛行われている。慶長国絵図にも村名がみえる。慶長検地高は九五四石余(「池田輝政慶長検地記録」森川家文書)。正保郷帳では田方六八二石余・畑方一一一石余。
林田村
はやしだむら
[現在地名]土佐山田町林田
山田島村の東に位置し、南は加茂村。大倉山に源を発してほぼ西流する空谷川が村の中央やや南を流れ、耕地を南北に分断する。集落は数ヵ所に散在する。片地郷(村)一三ヵ村の一で、明治初年片地村となる。
天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳には林田村として九三筆、大蔵谷八筆、韮生口林田分七筆などが記されるが、近世には加茂村域とされる鹿苑寺が当村に記されるなど、近世村との対応は難しい。
林田村
はやしたむら
笹尾村の南、木津村の北西にある。中世は多田庄のうちで、天文一二年(一五四三)一〇月二日の道者売券(神宮文庫蔵輯古帳)のうち高田全三が道者を売却したなかに「多々庄」「林た」とある。慶長国絵図に「林田村」とみえ、高七九石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では六瀬一〇ヵ村のうちとして「林田」とある。寛永四年(一六二七)から摂津麻田藩領になったと考えられ、正保郷帳では同藩領で、高七六石余。
林田村
はやしだむら
[現在地名]甘木市林田
八重津村・徳淵村の東、佐田川と荷原川の間の平野部に位置する。下座郡に属し、南は上畑村・長田村。江戸時代を通じて福岡藩領。当地の字蜷城は観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状にみえる「蜷城村」にあてられ、同村は正応三年(一二九〇)に安楽寺(太宰府天満宮)に寄進された筑前国衙領のうちであった。小早川時代の指出前之帳では鵜木村の高に含まれて高付されていた。慶長七年(一六〇二)の検地高一七〇石余、うち大豆一五石余(慶長石高帳)。
林田村
はやしだむら
[現在地名]岱明町三崎
南部を友田川が西流し、東は友田村、北は上村、南は下村に接する。慶長一一年(一六〇六)の検地帳表紙に「大野内林田村」とある。近世は坂下手永に属する。宝暦一〇年(一七六〇)頃の郡方記録写(県立玉名高校蔵)によると天草十太夫・小野市次郎・寺本登らの給人がいる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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