林達夫(読み)はやしたつお

精選版 日本国語大辞典 「林達夫」の意味・読み・例文・類語

はやし‐たつお【林達夫】

評論家。東京出身。京都帝国大学卒。自由主義的な思想家として政治、思想、文化など広い分野にわたって批評を展開し、平凡社の「世界大百科事典」の編集長もつとめた。著「思想の運命」「歴史の暮方」「共産主義的人間」など。明治二九~昭和五九(一八九六‐一九八四

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デジタル大辞泉 「林達夫」の意味・読み・例文・類語

はやし‐たつお〔‐タツを〕【林達夫】

[1896~1984]評論家。東京の生まれ。自由主義的な思想家として、政治・思想・文化の動向に鋭い批判を加えた。平凡社の「世界大百科事典」編集長。著「思想の運命」「歴史の暮方」「共産主義的人間」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「林達夫」の意味・わかりやすい解説

林達夫 (はやしたつお)
生没年:1896-1984(明治29-昭和59)

両大戦間,第2次大戦中,戦後の時期を通じ,反戦と自由主義の立場を貫いた日本の代表的知識人。外交官の長男として東京に生まれ,幼時の4年間をアメリカのシアトルに過ごした。京都府立一中を経て,第一高等学校に入学し,その《校友会雑誌》に《歌舞伎劇に関するある考察》(1918)を発表,〈過去をふりすてよ,生温き“あれも--これも”を脱せよ,……これをとくにわたくしのうちの歌舞伎劇を愛せむとする心にむかって言いたい〉(《著作集》I)と論じた。果たしてその後は,西洋文化の研究に専念して,生涯変わらなかった。京都帝国大学哲学科で美学および美術史を専攻し1922年修了,高瀬芳と結婚し,藤沢市鵠沼に住む。その後この住居を離れたのは,晩年の短いヨーロッパ旅行(1971-72)だけであった。1927-28年第1次《思想》の編集,次いで29-45年和辻哲郎,谷川徹三とともに第2次《思想》の編集に従い,〈《思想》をやわらげなきゃならない〉〈学問と学問の垣根をとってインターになる,そういうことをやらなくちゃいけない〉(《著作集》VI)の方針で通した。

 文芸復興期の研究では,主として科学技術的な面を扱った《発見と発明との時代》(1927),主として人文主義を論じた《文芸復興》(1928)が戦前の仕事であり,その経済的背景を分析した《ルネサンスの母胎》(1950)と,政治的・社会的功罪を説く《ルネサンスの偉大と頽廃》(1951)が戦後の仕事であり,見事に相互補完的である。併せて一つの方法論を示唆する《精神史--一つの方法序説》(1969)に収斂(しゆうれん)する。

 代表的な翻訳は1930年代の業績であり,ファーブルの《昆虫記》(1930-34,きだ・みのると共訳)やベルグソンの《笑い》(1938,改訂版1976)は,翻訳文学の最高の水準を示す。また,林達夫はこの時期にマルクス主義に近づき,唯物論研究会の幹事の一人になった。しかし30年代末には,戦争が哲学者や文学者をも巻き込んでいく時代が来る。そして,《開店休業の必要》(1940),《歴史の暮方》(1940)がその時代に対する反応を代表する。〈こんなに頼りにならぬ人間ばかりだとは思っていなかった〉(《著作集》V),〈絶壁の上の死の舞踊(ダンス・マカーブル)に参加するひまがあったら,私ならばエピクロスの小さな園をせっせと耕すことにつとめるであろう〉(同上)と嘆息した。かくして林達夫は鵠沼の家の小さな園を耕して,敗戦のときまで再び筆を執ることがなかった(ほとんど唯一の例外はその庭の〈ラベンダー〉について書いた一文だけである。1942)。戦争に対する,または一般に権力に対する態度を要約するのは,おそらく敗戦直後に書かれた《反語的精神》(1946)であろう。〈自由なる精神にとって,反語ほど魅力のあるものがありましょうか。……自由なる反語家は柔軟に屈伸し,しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える〉(《著作集》V)という。また,戦後早くからスターリン主義を批判した(《共産主義的人間》1951)。

 戦後の大きな仕事は,1951-58年平凡社の《世界大百科事典》の編集である。〈第二次世界大戦後の日本の正しい歩みに,この《世界大百科事典》が測り知れぬ基本的役割をもつであろうことを信じていた〉(《著作集》VI)とみずから言う。その信念は正しかった。まったく新しく編集されたこの《世界大百科事典》(1988)も,林達夫その人と《世界大百科事典》なしにはありえなかったろう。その著作のほとんどすべては《林達夫著作集》全6巻に収録されており,ほかに久野収との対談《思想のドラマトゥルギー》(1974)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林達夫」の意味・わかりやすい解説

林達夫
はやしたつお
(1896―1984)

思想家。東京に生まれる。京都帝国大学哲学科(選科)卒業。西洋古代から近代に至る該博な知識と絢爛(けんらん)たる文体によって、早くから洋学派の特異な思想家として知られ、1929年(昭和4)以後敗戦まで『思想』の編集にあたり、広い視野をもつ独自の思想雑誌をつくった。1930年代初め一時左傾したが、1935年以後あくまでも自由主義の立場を貫き、「歴史の暮方」などのエッセイで1941年まで時代に対する厳しい批判をやめなかった。1941年以後敗戦まで完全に沈黙を守り、1946年(昭和21)の「反語的精神」によって復活した。戦後はジャーナリストとして活躍し、多くの新人を発掘するとともに平凡社(株)に入社、編集長として『世界大百科事典』(1954~1958)を完成した。他方1951年には早くもスターリニズムを批判する「共産主義的人間」を発表し、その先駆的洞察によって戦後思想史に一石を投じた。晩年は学問の世界に閉じこもったが、1969年の「精神史――一つの方法序説」は、1970年代の世界的な知のパラダイムの変換に先鞭(せんべん)をつけた論文である。著書に『文芸復興』(1935)、『歴史の暮方』(1946)、『共産主義的人間』(1951)などがある。

[渡辺一民 2016年9月16日]

『『林達夫著作集』6巻・別巻1(1971~1972、1987・平凡社)』『『林達夫評論集』(岩波文庫)』

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百科事典マイペディア 「林達夫」の意味・わかりやすい解説

林達夫【はやしたつお】

思想家。東京生れ。幼時を米国シアトルに過ごし,一高,京大に学ぶ。ルネサンスを中心とするヨーロッパ文化史を幅広く摂取し,アカデミーとジャーナリズムの接点に立って学際的に活躍。岩波書店の《思想》,平凡社の《世界大百科事典》(1955年―1959年,全32巻)の編集を指導。反語(イロニー)的精神による批評活動は時流を越えて珠玉の作品に結晶し,後進に多大の影響を与えた。《ルソー》《思想の運命》《歴史の暮方》《共産主義的人間》など。著作集がある。
→関連項目鎌倉アカデミアきだ・みのる東方社

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林達夫」の意味・わかりやすい解説

林達夫
はやしたつお

[生]1896.11.20. 東京
[没]1984.4.25. 東京
評論家,翻訳家。京都大学哲学科選科で美学美術史を専攻。東洋大学,津田塾大学,立教大学,法政大学などの講師をつとめつつ,『思想』編集にたずさわる。第2次世界大戦前の業績に『文芸復興』 (1928) ,『思想の運命』 (39) などの著作やベルグソンの『笑』の翻訳などがある。戦争中は自宅でバラ栽培や養鶏をして過し,無言の抵抗を貫く。戦後は学問とジャーナリズムの接点に位置し,新人評論家を育て,また『世界大百科事典』 (33巻,1955~63) の編集長もつとめた。代表作『歴史の暮方』 (46) ,スターリニズム批判の先駆として注目された『共産主義的人間』 (51) など。『林達夫著作集』 (6巻,71~72) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林達夫」の解説

林達夫 はやし-たつお

1896-1984 昭和時代の評論家。
明治29年11月20日生まれ。昭和4年から岩波書店の「思想」を編集。戦後は中央公論社出版局長などをへて平凡社「世界大百科事典」編集長をつとめる。すぐれた識見とひろい視野をもつ啓蒙(けいもう)家として活躍。31年明大教授。昭和59年4月25日死去。87歳。東京出身。京都帝大卒。著作に「歴史の暮方(くれがた)」「共産主義的人間」など。
【格言など】政治くらい,人の善意を翻弄し,実践的勇気を悪用するものはない(「新しき幕明き」)

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