柏原浦
かしわばるうら
[現在地名]東串良町川東
川東村の南部、肝属川河口左側にある浦で、対岸の高山郷波見浦(現高山町)とともに漁業と交易の拠点であった。慶長四年(一五九九)三月五日の島津忠長宛島津忠恒宛行状(旧記雑録)では川東の柏原村一千七九石余のほかに浦役八石が宛行われており、当浦の利用は近世初期にさかのぼる。だが中世は河口に突出した砂嘴で、柏原と西方唐仁との間は潟であったため、唐仁がおもな湊であったといい、柏原が貿易港・漁港として発展をみるのは柏原と唐仁との間の干拓が行われた江戸時代中期以降とされる(東串良郷土誌)。元禄国絵図によれば湊口の広さ一四間・深さ三尺、満潮時の広さ四〇間・深さ七尺、水上三〇町ほど潮入りで、大船五、六艘ほどつなぎ、東風・北風の時は船の出入りが不自由、南は荒磯とみえる。宝永七年(一七一〇)の上使御答書(列朝制度)では船数一〇五艘、うち猟船六三艘・五反帆以下三〇艘・六反帆以上は一二艘とある。河口より日向国福島(現宮崎県串間市)まで海上八里、同国外之浦(現同県南郷町)まで海上一五里、内之浦まで海上五里であった(元禄国絵図)。
柏原浦
かしばらうら
[現在地名]芦屋町山鹿
山鹿村の北西部にある響灘に面した浦で、集落は響灘の湾入部(柏原湾)に沿って発達。山鹿村の枝郷として扱われ、郷村帳類では同村のうちに含まれて高付された。田畑も有した浦で(芦屋町誌)、柏原村ともいい、慶長国絵図に「山鹿村ノ内柏原浦」、元禄国絵図では「山鹿村之内柏原村」とみえる(いずれも高は記されていない)。なお柏原は「かしわばら」ともよんだ(「地理全誌」など)。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(麻生文書/筑前麻生文書)に「柏原浦」とある。弘治三年(一五五七)には脇田浦・脇浦(現北九州市若松区)との間で、白島(現同上)の漁場をめぐって相論が生じている(若松区の→脇田浦)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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