改訂新版 世界大百科事典 「柳原家」の意味・わかりやすい解説
柳原家 (やなぎはらけ)
藤原氏北家冬嗣の兄真夏の子孫で,日野家の支流。〈やなぎわらけ〉ともいう。権大納言日野俊光の四男権大納言資明(すけあき)を祖とし,鎌倉末期に創立された。柳原資明は日野資朝の弟で,長兄資名が光厳天皇の寵臣であったため,北朝に仕えて勢力を張り,柳原殿に住したのにちなんで柳原を姓とした。世々紀伝道をもって出身し,多くは文章博士に任ぜられたが,1471年(文明3)量光が文章博士に任じたのを最後に紀伝道を世襲する伝統が断絶した。江戸時代の公家としての家格は名家で,弁官,蔵人を経て大納言に昇るのを例とし,家禄は初め200石,のち202石余を給された。資廉は元禄(1688-1704)前後,光綱は宝暦(1751-64)前後にそれぞれ武家伝奏をつとめて公武の間に鞅掌した。資廉が勅使として江戸下向中の1701年(元禄14)に浅野長矩の刃傷事件が起こったが,無事任務を果たした。また光綱は宝暦事件の際,血気にはやる若き公卿をよく押さえて竹内式部の糾明を幕府に要求した。この光綱は紀伝の家としての伝統を強く自覚し,《日本三代実録》以後の国史の欠を慨歎してその編修を思い立ち,その遺嘱を受け継いだ子の紀光(もとみつ)は諸家の記録文書を博捜して《続史愚抄》81冊を著した。紀光の集めた膨大な史料は〈柳原家記録〉として宮内庁書陵部に伝存している。ついで光愛(みつなる)は幕末維新の際,公武合体派の公卿として国事に尽くしたほか,山陵修補御用掛を命ぜられて山陵の修補に努めた。その女愛子(なるこ)は明治天皇に仕えて典侍となり,1879年皇子(大正天皇)を出産した。また光愛の子前光(さきみつ)は戊辰の役に東征大総督府参謀などに任じ,ついで明治新政府の外務省に出仕して外務大丞に任じ,主として対清外交に活躍したほか,元老院議官,枢密顧問官および宮中顧問官等の要職を歴任し,その間の1884年華族令の制定に当たり伯爵を授けられた。
執筆者:川田 貞夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報