柳成龍(読み)りゅうせいりゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳成龍」の意味・わかりやすい解説

柳成龍
りゅうせいりゅう
(1542―1607)

朝鮮、李朝(りちょう)の政治家、学者。字(あざな)は而見(じけん)、号は西厓(せいがい)、諡号(しごう)は文忠。退渓李滉(りこう)の門人。学識徳行ともに優れ、儒生の尊敬を集めた。官は最高位の領議政に至る。壬辰倭乱(じんしんわらん)(豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮侵入)の際、都体察使として軍務を総括し、李舜臣(りしゅんしん)、権慄(けんりつ)(1537―1599)らの名将登用したほか、軍隊養成のため訓錬都監を新設し、火器製造、城郭修復など軍備の充実に努力した。著書に『西厓集』『懲毖録(ちょうひろく)』などがある。

[山内弘一 2016年10月19日]

『朴鐘鳴訳注『懲毖録』(平凡社・東洋文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳成龍」の意味・わかりやすい解説

柳成龍
りゅうせいりゅう
Yu Sǒngryong

[生]中宗37(1542)
[没]宣祖40(1607)
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) の政治家,学者。慶尚北道安東郡豊山面出身。字は而見。号は西 厓。李退渓に師事し,明宗 22 (1567) 年文科に及第。右議政,左議政を経て壬辰の倭乱 (→文禄・慶長の役 ) のときは都体察使として李舜臣らの名将を起用し,領議政 (首相) になって避難する王に従ったが,国家変乱の責任をとって辞し,都体察使になって日本軍と対戦した。宣祖 26 (93) 年再び領議政となり,軍備拡充,軍隊養成に尽力。同 31年官職を辞した。主著『西 厓先生文集』『慎終録』『懲ひ録』。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「柳成龍」の意味・わかりやすい解説

柳成龍【りゅうせいりゅう】

朝鮮王朝の政治家,文人。号は西【がい】。李退渓に学ぶ。壬辰倭乱(文禄の役)の際に,領議政,兵曹判書の要職に任命される。秀吉の朝鮮侵略の危険を察知し,李舜臣を登用,防衛体制の整備に尽力するが,国内の動揺回避のため侵略はないと主張し失脚させられる。やがて復して内政と対明外交につとめ,明の参戦を実現,秀吉軍撃退に功績をあげた。その後,日明講和問題で再び責任を問われ免職,故郷安東に隠棲した。隠退後,後世のいましめとするために,壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の経緯を詳述した《懲抗録(ちようひろく)》を執筆した。《懲抗録(ちようひろく)》は史料としても貴重で,平凡社の東洋文庫で現代語訳が刊行されている。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android