柳生村(読み)やなぎうむら

日本歴史地名大系 「柳生村」の解説

柳生村
やなぎうむら

[現在地名]仙台市柳生・西中田にしなかだ一―三丁目・同五丁目・同七丁目

大野田おおのだ村の南、名取川右岸で高館たかだて丘陵から続く扇状地の扇端部近くの平地に立地し、名取川の旧河道が残存する。東は前田まえだ村。西部から南部にかけては熊野堂くまのどう村や吉田よしだ(ともに現名取市)と接する。古代から交通の要所であり、名取平野の西端の山際を北上したあずま海道は熊野堂村より二つに分れる。その一つが当村を経て名取川を渡り大野田村に抜ける道であった。中世の板碑も多く、有紀年銘のもの二七基、無紀年銘のもの三五基を数える。最も古いのは字上河原かみがわらにある文永一〇年(一二七三)金剛界大日如来種子が記されたもので、鎌倉期のものは他に一七基ある。板碑は西隣の熊野堂村に行くとさらに増えることから同村に鎮座する熊野三社との関係が深いと考えられる。元和五年(一六一九)の伊達政宗領知渡方黒印状(伊達家文書)に柳生とあり、福田助五郎の知行地の一部があった。

柳生村
やぎゆうむら

[現在地名]北川辺町柳生

東は小野袋おのふくろ村の西に位置し、北西はあいの川跡を隔てて上野国邑楽おうら下五箇しもごか村・海老瀬えびせ(現群馬県板倉町)。柳の茂った原野を元亀年中(一五七〇―七三)開発したという。日光道中から中山道へ通ずる脇往還は、村内で海老瀬村に至る道と麦倉むぎくら村へ通じる道の二条に分れた(風土記稿)

検地は寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治、寛文五年(一六六五)下総古河藩が行った(風土記稿)。田園簿では水損場と記され、田高三一九石余・畑高四七〇石余であるが、明和九年(一七七二)には一四六石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)

柳生村
やぎゆうむら

[現在地名]奈良市柳生町

打滝うちたき川流域にあり、西は山越え阪原さかはら村。小柳生こやぎゆう村ともいう。建久八年(一一九七)二月日の大和笠置寺大法師等解案(東大寺文書)に「小楊生郷」、永仁六年(一二九八)の西大寺田園目録に「添上郡小柳生一段字船尾」とある。中世は小柳生庄・小楊生郷とよばれた。

慶長郷帳には「小柳生村」として村高九二五・一四石。関ヶ原の戦の功績で安堵された旗本柳生又右衛門(のち但馬守)宗矩領。のち芳徳ほうとく寺領二〇〇石が分離され、その支配地柳生下やぎゆうしも村が生れ、さらに元禄年間(一六八八―一七〇四)以降に大保おおぼ村が分離独立し、村高は四七七・二四三石となる。

柳生村
やぎゆうむら

[現在地名]本荘市石沢いしざわ 柳生

石沢川中流域北岸の平野部に位置し、東北と西はたて村、東南は鳥田目とりため村と接する。

村勢の推移については不明で、明治元年(一八六八)桂林かつらばやし金山かねやま湯沢ゆざわの三ヵ村が合併して桂林村となり、さらに同九年柳生村と合併して柳生村となる(町村分合沿革表)。同五年の村高は柳生村一三六石余、桂林村一三八石余(旧高旧領取調帳)。明治初年の柳生村の戸数二九戸、人数一五一人、馬二七頭で、漁船一〇艘、漁業兼業農家が一五戸あり、薪炭が豊富で、炭は五千四〇〇貫を本荘町に出荷している(羽後国由利郡村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報