柴山村(読み)しばやまむら

日本歴史地名大系 「柴山村」の解説

柴山村
しばやまむら

[現在地名]加賀市柴山町・手塚町てづかまち

柴山潟の北岸にあり、芝山とも書いた。地内にある柴山出村しばやまでむら遺跡は縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡で、とくに弥生時代初頭の出土土器は、柴山出村式土器の基本資料とされ重要である。条痕文系の土器で、精製土器は大洞式系の工字文などで飾られる。中世は京都北野社領富墓とみつか庄のうちで、「御前落居記録」永享四年(一四三二)一二月二日条に「加賀国富墓庄号柴山」とみえ、柴山は富墓庄の別名として以後も用いられている。応永二〇年(一四一三)一一月二日、富墓庄の預所筑前守知職が菅生すごう社に寄進した田のうちに「一段卅代 柴山湯屋谷在之」とある(菅生石部神社文書)。時衆過去帳(清浄光寺蔵)の同二一年頃の往生僧衆に柴山の智阿がおり、遊行一五代尊恵に結縁した尼衆として「シハ山」の住一房・衆一房がみえる。

当地を本貫とした国人柴山氏は富墓庄の代官を勤め、畠山政長の被官である(「蔭涼軒日録」延徳二年正月一六日条、「北野社家引付」同年一一月三日条)


柴山村
しばやまむら

[現在地名]千歳村柴山 辺田部へたべつつみ井の上いのうえ岩下いわした

高畑たかはた村の東、大野川北岸の河岸段丘上にある。北は長峰ながみね村、北西新殿にいどの村。豊後国弘安田代注進状には海部郡八三一町のうちに国領の「柴山村拾町」がみえ、地頭戸次三郎重親とある。所属郡が異なるものの、この柴山村が当地一帯に比定される。正保郷帳には大野郡の内に井田いだ郷の柴山村がみえ、田高三六八石余・畑高二四四石余、日損所と注記される。元禄郷帳・天保郷帳の高は高畑・日向久保ひゆうがくぼ両村を含むと推定され、両村が各々独立して記される旧高旧領取調帳では、柴山村は高三四一石余。


柴山村
しばやまむら

[現在地名]白岡町柴山

芝山村(武蔵志)とも記した。東は荒井あらい新田村、西は柴山村枝郷(現菖蒲町)、南は元荒川を隔てて高虫たかむし(現蓮田市)。西端を見沼代用水が流れ、東側の低地は荒井新田村の台地との間に挟まれた柴山沼さら沼の低地。騎西きさい領のうち(風土記稿)。慶長四年(一五九九)五月の廓之坊諸国檀那帳(熊野那智大社文書)にみえる武蔵国「しば山卅三郷」は当地にあたるか。寛永二年(一六二五)下総古河藩永井氏による検地があった(風土記稿)


柴山村
しばやまむら

現大字柴山一帯を含む地域と考えられる。豊後国弘安田代注進状には海部郡八三一町のうちに「国領 柴山村拾町」とある。地頭は戸次三郎重親(大友姓戸次氏祖重秀の子)。一〇町という小範囲の国領としては海部郡毛井けい(現大分市)一〇町と大分郡判田はんだ(現同上)三〇町がみえ、ともに官道上の津済つわたしとしての要衝の地となっているので、柴山村にも津済があったと考えられるが、海部郡所属とされた理由は不明。


柴山村
しばやまむら

[現在地名]立山町柴山

日中につちゆう村の南西に位置する。伝承ではいな(現上市町)の又右衛門が開村したという。寛永一七年(一六四〇)あきしま用水開通後の新村であろう(立山町史)。南は日中上野につちゆううわの村。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一六六石、免一ツ八歩、明暦二年の新田高二石(三箇国高物成帳)


柴山村
しばやまむら

[現在地名]下館市柴山

北は口戸くちど村、東は折本おりもと村。源平の屋島合戦で、那須与一宗高が大功をあげたため、その報謝として伊勢神宮に当村と金丸かなまる村を寄進したと伝えられる(真壁郡郷土史)。元和九年(一六二三)の水谷氏の検地からも除かれ、幕末まで伊勢神宮領であり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には高永一〇貫文、鎮守神明、家数八、伊勢神宮領岩淵二頭太夫支配所とある。


柴山村
しばやまむら

[現在地名]八木町字柴山

八木島やぎしま村から南に延びる小さな谷の奥にある小村で、東と南は八木村、西は大内おおち村・桑田郡西神前にしこうざき(現亀岡市)。八木村へは峠道で通じるが、北を除く三方は山に囲まれる。園部藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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