日本大百科全書(ニッポニカ) 「根来寺衆」の意味・わかりやすい解説
根来寺衆
ねごろじしゅう
根来寺(和歌山県岩出(いわで)市根来)の僧兵。同寺は学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方とに分かれており、行人とよばれる僧徒らが武装し、僧兵化した。戦国期の行人方には岩室(いわむろ)坊、杉(すぎの)坊、泉識(せんしき)坊、閼伽井(あかい)坊の頭(かしら)四坊とその下の二十七人衆の旗頭の組織があったという。彼らは、杉坊持(もち)(代々杉坊を継いでいく家)の津田監物(つだけんもつ)が1544年(天文13)に種子島(たねがしま)から持ち帰り、同寺の膝元(ひざもと)で製造させた鉄砲で武装していた。その勢力圏は紀北から南河内(かわち)、南和泉(いずみ)にまで及び、雑賀(さいか)衆の土橋(つちはし)氏が泉識坊持であるように雑賀衆の一族も含み、泉南では在地土豪の子弟を氏子として組織化していた。宣教師ルイス・フロイスは「俗人の兵士のような服装をし、頭髪は背中のなかばくらいまで伸ばし、火縄銃・弓矢に熟練していた」と記している。その軍事活動は南北朝期にもみられるが、とくに1493年(明応2)前後より活発となり、紀伊(きい)守護畠山(はたけやま)氏に従い各地で頻繁に戦闘を行っている。1570年(元亀1)に織田信長が本願寺(ほんがんじ)を攻撃した際、信長方に加わった根来寺衆・雑賀衆の鉄砲は3000挺(ちょう)とも伝えられる。1577年(天正5)ころに一時的に本願寺方と結んだ雑賀衆の一部と対立するが、石山戦争終戦後は一体化し、1584年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは、雑賀衆とともに羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の背後を攻撃したため、翌年紀州攻めにあい、同寺はわずかに多宝塔などを残して焼失し、多数の衆徒が殺され滅亡した。子孫はその後、徳川家、紀伊徳川家、毛利(もうり)家などに仕え、とくに徳川家の根来百人組は有名である。
[石田晴男]
『峰岸純夫編『日本史の舞台6 戦雲流れる西ひがし』(1982・集英社)』