改訂新版 世界大百科事典 「桑名屋徳蔵入船物語」の意味・わかりやすい解説
桑名屋徳蔵入船物語 (くわなやとくぞういりふねものがたり)
歌舞伎狂言。時代物。5幕。並木正三作。1770年(明和7)12月大坂小川吉太郎座初演。海上で大入道と問答して退散させたという船乗り桑名屋徳蔵の話と金毘羅信仰を採り入れて,讃岐高丸家のお家騒動に仕組んだ狂言。筋立はたいそう複雑になっているが,それは善・悪双方がともに裏の裏を行くという策略をめぐらすためで,たとえば徳蔵と相模五郎は敵味方に分かれた双生児だが,4幕目では五郎が偽の徳蔵に,5幕目では徳蔵が偽の五郎になって現れたりする。観客もどれが本物でどれが偽者か,どっちが善側でどっちが悪側か見分けがつかなくなったりするが,こうした面白さは意想外の反転によって芝居を展開させる作劇法とも結びついている。その反転の一番の見せ場が遠州灘の場で,深川の揚屋だと思っていたものが一転して遠州灘の船中になり,ついで,舳先(へさき)を見せ,そこに徳蔵が櫓柄(ろづか)を取り磁石を見て,くわえ煙管で立っているということになる。このあと,大入道との問答を作り替えた,吉原の傾城檜垣の幽霊との豪胆で滑稽な問答になり,あげくの果てにその幽霊まで味方に付けてしまうが,この檜垣を高丸家の若殿亀次郎から引き離すため海に投げ込んで殺したのも徳蔵である。徳蔵は善の側で明るく愛嬌もあるが,そのたくましさには悪とすれすれのところがないではない。そしてそれと相対するのが足利家転覆をねらう相模五郎の凄みのある悪ということになるのだが,この陰陽二つに分かれたエネルギーを一人二役の演技で舞台化したのが実悪の名人初世中村歌右衛門である。5幕目,淡路大領の娘糸姫が雛祭の酒をのんで大暴れに暴れながら次々と宝を探し出すというのも,破壊的なエネルギーをユーモラスに噴出させていておもしろい。上方では繰り返し上演されたが江戸では上演されず,鶴屋南北の《独道中五十三駅(ひとりたびごじゆうさんつぎ)》などに趣向上の影響が見られるくらいである。
執筆者:廣末 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報