並木正三(読み)ナミキショウゾウ

デジタル大辞泉 「並木正三」の意味・読み・例文・類語

なみき‐しょうぞう〔‐シヤウザウ〕【並木正三】

[1730~1773]江戸中期の歌舞伎狂言作者。初世。大坂の人。並木宗輔の弟子。浄瑠璃の手法を応用した脚色と、奇抜な舞台装置新生面を開いた。代表作三十石艠始さんじっこくよぶねのはじまり」「宿無団七時雨傘やどなしだんしちしぐれのからかさ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「並木正三」の意味・読み・例文・類語

なみき‐しょうぞう【並木正三】

  1. 江戸中期の歌舞伎作者。初世。大坂の人。並木宗輔の門。はじめ浄瑠璃に筆を染めたが師の没後歌舞伎に転じ大坂劇壇の第一人者となる。回り舞台、がんどう返しの発明など、舞台機構創意工夫は後の劇界に大きな影響を与えた。作品に「三十石艠始」「宿無団七時雨傘」など。享保一五~安永二年(一七三〇‐七三

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改訂新版 世界大百科事典 「並木正三」の意味・わかりやすい解説

並木正三 (なみきしょうぞう)

歌舞伎作者。一説に,正三は〈しょうざ〉ともよむ。(1)初世(1730-73・享保15-安永2) 大坂道頓堀の芝居茶屋和泉屋正兵衛の子。幼時より歌舞伎や操り芝居に出入りし,19歳のとき,泉屋正三の名で三番続きの狂言《鍛冶屋娘手追噂》を書いた。1750年(寛延3)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の門弟となり並木正三と改め,豊竹座に入ったが,翌年宗輔が没するとまもなく歌舞伎界に復帰,以後20年間に約90編の歌舞伎脚本を書いた。お家騒動や俠客物が多く,時代物の中に世話物が含まれているが,人形浄瑠璃で学んだ雄大な構想,複雑な構成や演出などの劇的な技巧を歌舞伎に採り入れた。歌舞伎台本にチョボを書き入れたのは,通説では正三が嚆矢(こうし)とされる。また《けいせい天羽衣》(1753)では大仕掛けなセリ出し,《三十石艠始(さんじつこくよふねのはじまり)》(1758)では回り舞台を,そのほか引き道具,がんどう返しなどを次々に創案し,舞台機構に新生面を開いた。がんどう返しは,大屋根や二重屋体など舞台の大道具を後へ倒し,次の場面を描いた底の面を立て,または次の大道具をせり上げて場面転換する手法である。本水(ほんみず)の使用も彼が始めたといわれる。歌舞伎台本の戯曲性の向上と歌舞伎独自の演出の開発,すなわち,ドラマ性とスペクタクル性を飛躍的に高めた。〈浄瑠璃に門左衛門,歌舞伎に正三〉と並び称せられ,歌舞伎中興の祖とされた。代表作は前記のほかに《幼稚子敵討(おさなごのかたきうち)》(1753),《霧太郎天狗酒醼(てんぐのさかもり)》(1761),《宿無団七時雨傘しぐれのからかさ)》(1768),《桑名屋徳蔵入船物語》(1770),《日本第一和布刈神事(めかりのしんじ)》(1773)などがある。(2)2世(?-1807(文化4)) 初世の血縁者で,初め役者であった。のち作者に転じたが,見るべきものはない。通説では《戯財録(けざいろく)》は彼の著述ともされる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「並木正三」の意味・わかりやすい解説

並木正三(なみきしょうざ)
なみきしょうざ

歌舞伎(かぶき)作者。2世まである。「しょうぞう」とも読まれる。

初世

(1730―1773)大坂・道頓堀(どうとんぼり)の芝居茶屋和泉屋(いずみや)の子として生まれる。14、15歳のときすでに手妻(てづま)からくりの水船の仕掛けを考案。1748年(寛延1)に泉屋正三の名で浜芝居の狂言『鍛冶屋娘手追噂(かじやむすめておいのうわさ)』を書き、続いて大芝居に進出、10代の若さで『恋淵絞染(こいのふちちしほのしぼりぞめ)』を合作。歌舞伎作者として活躍したのち、1750年に丸本作者並木宗輔(そうすけ)に入門して並木と改姓。豊竹座(とよたけざ)で『増補日蓮聖人御法海(にちれんしょうにんみのりのうみ)』などを書き、師の没後歌舞伎界に戻る。1753年(宝暦3)に『けいせい天羽衣(あまのはごろも)』の大規模なせり上げで大当りをとり人気作者としての地位を確立。1758年の『三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)』では回り舞台をくふうして古今の大当りをとる。ついに「大坂歌舞妓芝居惣頭取(そうとうどり)」と称し座頭役者をも呼び捨てにする権勢をもつに至った。その作風は、丸本風の複雑で巧みな筋立てのなかに、場面本意の歌舞伎的趣向を大胆に取り込んでいるのが特色。代表作に『幼稚子敵討(おさなごのあだうち)』『霧太郎天狗酒醼(きりたろうてんぐのさかもり)』『宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)』『桑名屋徳蔵入舩物語(くわなやとくぞういりふねものがたり)』『三千世界商往来(さんぜんせかいしょうばいおうらい)』などがあり、一部は絵入り根本として後世出版されている。

[古井戸秀夫]

2世

(?―1807)初世の妻の親類。歌舞伎作法書『戯財録(けざいろく)』の作者。

[古井戸秀夫]


並木正三(なみきしょうぞう)
なみきしょうぞう

歌舞伎(かぶき)作者。2世まである。

[編集部]

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朝日日本歴史人物事典 「並木正三」の解説

並木正三(2代)

没年:文化4.7.25(1807.8.28)
生年:生年不詳
江戸中期の歌舞伎狂言作者。大坂道頓堀の芝居茶屋の生まれで,初代の妻の血縁者という。幼名正吉,前名は浅尾正三といい,浅尾為十郎門下の役者であったが,天明7(1787)年11月の大坂大西芝居から作者並木正三として番付にその名を載せている。寛政6(1794)年には大坂中の芝居の立作者となったが,以後は辰岡万作,近松徳三,初代奈河七五三助の二枚目作者を勤め,再び立作者となることはなかった。作者としての活躍は乏しく,特記すべきものはない。従来初代並木五瓶の著作とされてきた『戯財録』の作者入我亭我入はこの2代目並木正三かとする説が最近有力であるが確証はない。3代目は明治に入って奈河正作が名乗るが,活躍はみられなかった。<参考文献>『近世芸能論』(日本思想大系61巻)

(北川博子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「並木正三」の意味・わかりやすい解説

並木正三(1世)
なみきしょうぞう[いっせい]

[生]享保15(1730).大坂
[没]安永2(1773).大坂
歌舞伎狂言作者。道頓堀芝居茶屋和泉屋の息子で,寛延3 (1750) 年浄瑠璃作者並木宗輔の門に入り,並木姓を称したが,翌年師の病没にあい,歌舞伎作者に転じた。宝暦3 (53) 年『けいせい天羽衣』でせり出しを,同8年『三十石よぶねの始 (さんじっこくよぶねのはじまり) 』で回り舞台を考案するなど,舞台機巧にも新工夫を重ねた (→歌舞伎劇場 ) 。また,義太夫節をちょぼとして歌舞伎狂言に取入れ,人形浄瑠璃の諸要素を歌舞伎に移入した。 90編近くの作品がある。代表作は前記のほか『宿無団七時雨傘』『桑名屋徳蔵入舟物語』など。

並木正三(2世)
なみきしょうぞう[にせい]

[生]? 大坂
[没]文化4(1807).7.25.
歌舞伎狂言作者。初め役者,のち作者に転じ生涯立作者にはならなかったが,歌舞伎狂言の作法書『戯財録 (けざいろく) 』を残した。

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百科事典マイペディア 「並木正三」の意味・わかりやすい解説

並木正三【なみきしょうざ】

歌舞伎狂言作者。大坂の人。名は〈しょうぞう〉と読まれてきた。初め泉屋正三の名で歌舞伎狂言を書き,1750年並木宗輔門下となり浄瑠璃に転向。翌年宗輔の死とともに歌舞伎に復帰。浄瑠璃と歌舞伎を融合,また,せり出しや回り舞台などの装置を発明。代表作《幼稚子敵討》など。
→関連項目奈河亀輔

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「並木正三」の解説

並木正三(初代) なみき-しょうぞう

1730-1773 江戸時代中期の歌舞伎作者。
享保(きょうほう)15年生まれ。寛延3年(1750)並木宗輔に入門。雄大な構想と複雑な筋が評判をよび,せり上げ,せり下げ,回り舞台などの舞台装置をみずから考案した。安永2年2月17日死去。44歳。大坂出身。幼名は久太,久太郎。前名は大西庄三,泉屋正三。通称は和泉屋正三。別号に当正(証)軒,友江子。名は「しょうざ」ともよむ。作品に「けいせい天羽衣(あまのはごろも)」「三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)」など。

並木正三(2代) なみき-しょうぞう

?-1807 江戸時代中期-後期の歌舞伎作者。
大坂道頓堀(どうとんぼり)の芝居茶屋に生まれる。はじめ浅尾為十郎(ためじゅうろう)門下の役者となり,浅尾正三を名のる。天明7年作者に転じて2代並木正三を襲名。立(たて)作者にまではいたらなかった。文化4年7月25日死去。初名は並木正吉。作品に「けいせい遊山桜(あそやまざくら)」「遠州中山染」など。

並木正三(3代) なみき-しょうぞう

?-? 明治時代の歌舞伎作者。
4代奈河七五三助(しめすけ)(のち近松八十翁)の門弟。明治5年(1872)奈河正作と改名し,17年大阪の戎(えびす)座で3代並木正三を襲名。立(たて)作者にはいたらなかった。初名は奈河鹿助。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「並木正三」の解説

並木正三
なみきしょうざ

1730~73.2.17

名は「しょうぞう」とも。歌舞伎作者。宝暦期を中心に活躍した上方の名作者。大坂道頓堀の芝居茶屋の子。浄瑠璃作者並木宗輔の門下となるが,師の没後歌舞伎に転向。人形浄瑠璃に学んだ雄大な構想,複雑な筋立てや独特の機知にとんだせりふで歌舞伎の戯曲性を高め,セリ・回り舞台・がんどう返しなど舞台機構を改良・創案。代表作「三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)」。正三の名は明治期の3世まで伝えられる。

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世界大百科事典(旧版)内の並木正三の言及

【韓人漢文手管始】より

…64年4月7日夜,大坂で通辞鈴木伝蔵が,使節の崔天悰(さいてんそう)を殺し,斬首の処刑を受けた。この一件を初めに歌舞伎化したのは並木正三で,67年(明和4)2月大坂嵐雛助座(角の芝居)で《世話料理鱸庖丁(すずきぼうちよう)》を上演。史実に近かったため2日間で中止を命ぜられ,ただちに奥州藤原の世界に改めた《今織蝦夷錦》を上演した。…

【三十石艠始】より

…時代物。初世並木正三作。1758年(宝暦8)12月大坂角の芝居初演。…

【中村歌右衛門】より

…当り役は,日本駄右衛門,清水清玄,桑名屋徳蔵,蘇我入鹿など。同時代の作者初世並木正三と連帯して大坂の舞台で活躍した。正三の作品の中で,スケールの大きい,悪の華とでもいうべき敵役は,ほとんどこの役者にはめて書かれたものである。…

【回り舞台】より

…これは京坂でも採用され〈回り道具〉とよばれた。1758年(宝暦8)12月大坂角の芝居で,初世並木正三作の《三十石艠始(さんじつこくよふねのはじまり)》が上演されたとき,独楽(こま)まわしにヒントを得た作者自身の発案で,四角の二重舞台を舞台いっぱいの丸い盆にかえ,独楽のように心棒を付け,舞台の下を深く広く掘り下げて,その心棒を奈落へ通して回すようにした(《並木正三一代噺》)。心棒によって回転する軌道のブレを防ぎ,操作するさまを客席から隠した。…

【宿無団七時雨傘】より

…通称《宿無団七》。初世並木正三作。1768年(明和5)7月大坂竹田芝居初演。…

【一谷嫩軍記】より

…1751年(宝暦1)12月大坂豊竹座初演。並木宗輔,浅田一鳥,浪岡鯨児,並木正三らの合作。宗輔が三段目までを書き,没後に浅田らが完成したと伝えられる。…

【大道具】より

…そのほか,歌舞伎では仕事の範囲がきわめて広く,前述の舞台機構の操作をはじめ,天井から雪や花を降らせることや,幕引き,ツケ打ちも大道具が受け持つ。 回り舞台を考案したのは,宝暦期(1751‐64)の大坂の作者並木正三といわれるが,これを江戸へ移して完成させたのは8世長谷川勘兵衛だという。その後,舞台へ切穴をあけて人物や道具を上下させるセリの機構をはじめ,道具の一部を綱で引っ張って前後左右に出したり引っ込めたりする〈引(ひき)道具〉や,壁,風景などの張物の一部を四角に切って中央に軸を入れ,回転させて人物を瞬時に出没させる〈田楽(でんがく)返し〉,舞台装置全体を前後に半回転させて場面を転換する〈がんどう返し〉などが考案された。…

【角座】より

…元禄期から竹嶋幸十郎・村山平十郎・竹嶋幸左衛門らが座本として活躍。1758年(宝暦8)並木正三が回り舞台を創案して大当りした。1826年(文政9)江戸参府の途次シーボルトが《妹背山婦女庭訓》を見物した劇場。…

【歌舞伎】より

…セリ上げや回り舞台がくふうされ,変化に富んだ作劇や演出が可能になった。この面では,上方の名作者初世並木正三の功績が大きい。
[天明歌舞伎]
 明和(1764‐72)から安永(1772‐81),天明(1781‐89)を経て寛政(1789‐1801)に至る18世紀後半の時代は,とくに江戸における庶民文化の最高潮に達した時である。…

【桑名屋徳蔵入船物語】より

…5幕。並木正三作。1770年(明和7)12月大坂小川吉太郎座初演。…

※「並木正三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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