毎年3月3日に雛人形を飾り、桃花や雛菓子を供えて、白酒で祝う習俗で、「桃の節供」ともいう。婦女子主体の祭りで、男子の五月節供と対置されてもいるが、雛人形主体の節供習俗の歴史は案外に新しい。江戸時代初頭(1630ころ)に宮廷や幕府で三月節供に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ、やがて寛文(かんぶん)年間(1661~73)以降にようやく雛祭の形が定着したとみられる。以後の雛祭は、工芸品としての雛人形の生成発達と関連してしだいに華美な形になり、また都市から農村へと波及していったが、その一般化は明治以降である。江戸時代初期の雛飾りは平壇・立雛の形が主だったらしいが、やがて精巧な土焼きの衣装人形の出現で華麗になり、重ね壇に内裏(だいり)雛以下、官女、大臣、五人囃子(ばやし)、仕丁(しちょう)、雛道具を並べるという形式が固定していき、新生の女児に雛人形を贈る風習も広まった。そして明治以降は、商店の雛人形売り出しがこうした傾向をいっそう推し進めもしたのである。
一方、こうした都市的雛祭とは別趣の古俗をいまに伝える地方もいくつかある。鳥取市周辺の「流し雛」はとくに注目され、「紙雛」を祭ったすえ、3月3日夕方、それを桟俵にのせて供物とともに川に流し去る。つまり「祓(はらえ)」の人形送りである。また関東の村々には、三月節供に古雛を川へ流し送るといって、白酒を供えて婦人・子供が野外にそれを祭り、泣いて別れを惜しむ風習があったと、『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』にはある。さらに三月節供のころ、磯(いそ)遊び、山あがり、花見、春なぐさみなどといって、子供たちが野外に出て終日遊び共同飲食する風習も、かなり広く各地にみられる。とくに長野県南部の「三月場」、千葉県の「野あそび」のように、雛人形を野外に据えて遊ばせ、その別離を惜しむ風習の伝承は注目されよう。もちろん一般の野遊び、山あがり、磯遊びには、雛人形との関連はないが、しかしそこにも「神送り」の古義をとどめるところが多いことは確かであろう。
ところで『源氏物語』須磨(すま)の巻には、三月上巳(じょうし)の日に陰陽師(おんみょうじ)を召して祓を行い、その人形(ひとがた)を船に乗せて流したという記事がみえ、『建武(けんむ)年中行事』にも、三月節供の「御燈(みあかし)」行事には「人形」に饗応(きょうおう)したあと、それを祓え送るとある。三月上巳の祓行事は、三月節供の雛祭の源流を知る手掛りで、本来、雛祭の人形の原形は、「罪穢(つみけがれ)」をつけて送り流す「撫物(なでもの)」であったという山東京伝(さんとうきょうでん)の指摘は的を射ていよう。桃酒や曲水宴を伴う「上巳」の行事は中国陰陽道の習俗の移入であるが、水辺の祓行事が先行習俗として日本にはあって、その習合行事として「上巳の祓行事」が生じ、その「撫物」が雛祭の主役にやがてなったものといえよう。そして工芸技術の進歩で雛人形の製作に巧緻(こうち)を競うに至ると、それを保存愛玩(あいがん)し連年祭ることにもなり、「流し雛」の古意はやがて忘却されるに至ったとみてよい。
しかし三月節供にはなお「上巳の祓」だけでは解きえない習俗もいくつかある。たとえば、北九州地方でこの日を「麦ぼめ節供」といい、畑の麦の生育ぶりをほめはやす意味の行事があった。前記の山遊び、野遊びにもむしろ、春の初めに野外に「農の神」を迎えて饗応する意味のものがかなりあった。つまりその季節に来往する疫神、精霊のたぐいを饗応して、彼らの退去を求める「神送り行事」が、三月上巳の節供の受容基盤であったともみられる。
[竹内利美]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新