桜田村(読み)さくらだむら

日本歴史地名大系 「桜田村」の解説

桜田村
さくらだむら

[現在地名]金沢市桜田町

犀川下流北岸、淵上ふちのえ村の西に位置する。中世には豊田といた庄に属した。「経俊卿記」康元二年(一二五七)閏三月一四日条に「安江庄内本庄山前桜田村」とみえる。花山院師継はこれらの地の、息妙光に対する安堵の院宣を申請し認められた。明応四年(一四九五)大野廛年貢算用状(天龍寺文書)に「桜田江代」とみえ、大野おおの庄より毎年四九一文が江代として支払われていた。天文六年(一五三七)八月七日妙光みようこう(現京都市右京区)は同寺・京都北野社・山城神護じんご寺の間で領有関係が錯綜していた豊田(村)について、同所領家職の保証を本願寺に求めて拒否された。


桜田村
さくらだむら

[現在地名]中仙町豊川とよかわ 桜田

たま川支流の小滝こたき川の北岸平坦地にあり、南は葛川くずかわ村、東は野中のなか村、西は八幡林はちまんばやし村、北は釣田新田つるたしんでん村・下花園しもはなぞの村(現角館かくのだて町)と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三一二石と記載される。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には合計当高が二一六石余とあるので、正保絵図の高に比して約一〇〇石の減少は村域の変化と考えられる。享保一五年の「六郡郡邑記」に「上桜田村上字除る 惣名唱也」とあり、支郷は下延しものぶ村四軒、中村五軒、今月村六軒とある。


桜田村
さくらだむら

[現在地名]栗駒町尾松おまつ

八幡やわた村の南、二迫にのはさま川左岸に位置する。東は二迫の菱沼ひしぬま村、西は同鶯沢うぐいすざわ(現鶯沢町)。当村も二迫に属し、一二迫上郷大肝入の管轄。応永二五年(一四一八)九月四日の鶯沢諸郷先達職預ケ状(白鶯山文書)によると、「鳥屋みこ」に預けられていた「さくら田」など五ヵ所の先達職の成敗権を木仏に与えている。「仙台領古城書上」に記す桜田城主桜田備中が「葛西大崎盛衰記」にみえる桜田備中守と同一人物とすれば、中世末当村は大崎氏の勢力下にあったと考えられる。同城は亀井かめい館ともいい、数段の段築を残す。年不詳の知行書上(石母田家文書)に「拾貫七百八拾壱文 桜田」とあり、寛永五年(一六二八)より承応元年(一六五二)まで当村に一家格の石母田氏の知行地があった。


桜田村
さくらだむら

[現在地名]松崎町桜田

江奈えな村の東に位置し、南を那賀なか川が西流する。北は山地那賀郡に属する。慶長三年(一五九八)の年貢目録(幕臣岩瀬氏関係史料)によると田一二町一反余・分米一七一石余、畑屋敷一〇町余・分米六七石余、うち二一石余夫免など。江戸時代初めは幕府領、元禄一一年(一六九八)に旗本岩瀬領となり幕末に至る(韮山町史)。元禄郷帳では高二七六石余。「掛川誌稿」では高二六五石余、戸数九五・人数三七六。明治三年(一八七〇)の村差出取調書上帳(松崎町有文書)では戸数九一・人数四一六、農間に男は大工・木挽・桶屋などと、木炭を山から下げ湊へ運ぶなどの駄賃稼、女は琉球畳表を織った。


桜田村
さくらだむら

[現在地名]大栄町桜田

南敷なじき村の北に位置する。嘉元二年(一三〇四)四月二二日の大宮司実秀等連署和与状(香取文書)に「大戸神崎村田桜田以下神祭物」とみえ、香取社支配下の一社が当地にあった。慶長四年(一五九九)検地帳(桜田区有文書)に「桜田之郷」とみえ、高三五九石余(「部冊帳」伊能家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも同高で、伊勢津藩領。天保一四年(一八四三)の高三六七石余、家数四二・人数二〇八(「大貫村組合村明細帳」平野家文書)


桜田村
さくらたむら

[現在地名]五所川原市桜田さくらだ

津軽平野北部、東は下岩崎しもいわさき村、西は川山かわやま村、南は沖飯詰おきいいづめ村、北は毘沙門びしやもん村に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に二〇六・二石とあり、貞享元年(一六八四)郷村帳新田として同高である。同四年の検地帳は田方一三町七反八畝四歩・畑方一町六反四畝一七歩、田畑屋敷合せて一五町四反二畝二一歩、村高九九・五一八石と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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