1560年(永禄3)5月19日,織田信長が今川義元を尾張国桶狭間村(現,名古屋市緑区有松町)・大脇村(現,豊明市)一帯の起伏の激しい丘陵地帯で迂回奇襲し敗死させた戦い。今川氏は門地・実力・地理的条件からみて上洛して将軍を補佐しうる最大の戦国大名であり,三河も掌握し1554年(天文23)武田・後北条・今川3氏和解の体制をつくり,58年ころから尾張侵入をはかり品野・笠原・鳴海・大高城を前線拠点とした。一方,信長は59年に岩倉城を攻略し,ほぼ尾張一円の支配をなしとげた。60年5月,義元は上洛の軍をおこした。兵数記述の最大は4万5000,最小は8000余騎で定め難いが,歩騎合計2万前後が妥当であろう。10日先発隊が府中出発,12日本隊出発,14日遠州池田原で諸勢総揃いして先陣・本隊を決定,16日本隊岡崎城着陣,17日本陣は池鯉鮒(ちりゆう)に移動,18日本陣を尾張沓掛城に移し軍議を開き松平元康(徳川家康)は丸根砦,朝比奈泰能は鷲津砦攻撃と決定,19日早暁一斉に攻撃開始。義元は大高城に向かう途中,桶狭間山に人馬を休息させ正午に両砦陥落の勝報を聞いた。一方,信長は宿老の籠城説をしりぞけ野戦に決し,19日未明にわずかの手兵を率いて出陣,午前8時熱田の宮に到着。両砦の陥落を知り道を上道(かみみち)にとり善照寺砦で兵を集結させたが,兵数は8000から800まで各説ある。さらに中島砦に移り,ひそかに義元本陣の山際まで迫ったとき,にわかの大驟雨に助けられ察知されず,空が晴れるや一挙に急襲した。肉薄戦となり義元は山あいの湿地で信長の近臣毛利秀高に討たれた。偶然の作用も多いが,信長の的確な情報把握と機敏果断が勝因である。今川氏はこの敗戦で滅亡への道をたどり,家康は今川への服属を断ち独立して信長と同盟,信長は後顧の憂いを絶って上洛作戦を容易にした。
執筆者:小島 広次
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1560年(永禄3)5月19日,織田信長が尾張国桶狭間・大脇村付近(現,名古屋市と豊明市の2説)で今川義元を破った戦。武田信玄・北条氏康と同盟していた義元は,策略で奪った鳴海城支援のため,駿河・遠江・三河の3国の軍2万5000を率い,5月12日駿府を発った。17日沓掛(くつかけ)城に到着した義元は,19日西に進んだ。信長は,丸根・鷲津の両砦を救援するため,19日早暁清須城から出陣,同日午後2時頃,桶狭間山で休息中の義元前軍に攻撃をかけた。義元は退却を指示するが,前軍の敗走の混乱のなかで討たれ,今川軍は総崩れとなった。義元の進発を上洛のためとする説もあるが,最近では尾張・三河両国の境界争いのためとする説が有力。この戦は,今川氏の没落と織田氏躍進の起点となり,三河の松平(徳川)氏もこれをきっかけに今川氏から独立,信長と同盟した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…60年大兵を率いて上洛を図った義元の先鋒として三河に入り,織田勢力の包囲に孤立していた大高城の兵糧入れに成功して初陣をかざった。 翌々日5月20日桶狭間の戦での義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立し,61年織田信長と和睦(1563年1月尾張清須で信長と会見),63年7月名を家康と改めた。直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが,翌年の春ごろにはこれを鎮定,結果として三河一国は家康によって統一されることになった。…
※「桶狭間の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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