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楊尚昆 ようしょうこんYang Shang-kun

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

楊尚昆
ようしょうこん
Yang Shang-kun

[生]1907.5. 四川,潼南
[没]1998.9.14. 北京
中国の軍人,政治家。 1925年上海大学に入学。 26年中国共産党に入党。 27~31年ソ連モスクワの中山大学に留学。 31年帰国後,中央宣伝部長などを歴任し,上海で労働者運動の組織に従事。 34年6期五中全会で中央委員候補に選出。 37年中央北方局副書記,のち書記となり,華北抗日根拠地の指導に従事しながら朱徳らの抗日ゲリラ戦争に協力した。 45年中央軍事委員会秘書長。 49~65年に中央弁公庁主任などをつとめた。 56年八全大会で中央委員,中央書記処書記候補に選出されたが,文化大革命直前毛沢東からの信任を失い,66年失脚。 78年名誉回復,広東省党委員会第二書記,副省長などをつとめる。 80年9月全国人民代表大会副委員長兼書記,81年7月中国共産党中央軍事委員会秘書長,82年同委員会常務副主席に昇格した。中国軍隊の改革に取組み,軍において鄧小平の路線と政策の推進に大きく寄与し,みずからの影響力をも伸ばした。 82年の十二全大会と 87年の十三全大会で政治局委員に連続当選。 88年4月国家主席に就任。 89年の天安門事件では民主化運動の武力弾圧を支持,民主化を求める学生や市民からの攻撃対象となった。 93年全職務から引退。 鄧小平との家族ぐるみの親交で知られる。なお弟楊白冰は 87年より解放軍総政治部主任,中央軍事委員会秘書長,中央書記処をつとめたため,「楊ファミリー」の影響力が話題を呼んだ。 92年十四全大会後,楊白冰は政治局委員に昇格したが,軍におけるポストは失った。

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デジタル大辞泉の解説

よう‐しょうこん〔ヤウシヤウコン〕【楊尚昆】

[1907~1998]中国の政治家。四川省出身。1926年中国共産党に入党。軍や党の要職を歴任し、1988年国家主席に就任。翌年に起こった天安門事件の鎮圧を指示。1992年国家主席・中央軍事委員会第一副主席を引退。鄧小平死去後は長老序列の1位となる。ヤン=シャンクン。

ヤン‐シャンクン【楊尚昆】

ようしょうこん(楊尚昆)

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百科事典マイペディアの解説

楊尚昆【ようしょうこん】

中国の政治家。四川省生れ。1926年中国共産党に入党。ソビエト連邦に留学後,長征に参加。解放後,党の主要ポストを歴任したが,1968年文化大革命で失脚。1978年復活。

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大辞林 第三版の解説

ようしょうこん【楊尚昆】

1907~1998) 中国の軍人・政治家。四川省出身。1926年共産党に入党し、抗日ゲリラ戦争を指導、解放後も党中央の要職を歴任し、81年中央軍事委員会秘書長となった。解放軍一〇〇万人削減を実現し、88年には国家主席となった。ヤン=シャンクン。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

楊尚昆
ようしょうこん / ヤンシャンクン
(1907―1998)

中国の政治家。四川(しせん)省生まれ。1926年に中国共産党に入党。以後、軍や党の要職を歴任し、1988年4月、元首に相当する国家主席に就任した。中国の政治を支配する長老の一人。1989年の天安門事件の際には武力弾圧の先頭に立ち、その後実弟の楊白冰(ようはくしょう)中央軍事委員会秘書長とともに軍内で大きな勢力をもつようになった。小平との関係は密接で、1992年、の南方視察の際も同行し、改革派の巻き返しに大きく貢献した。同年秋の第14回党大会で国家主席や中央軍事委員会第1副主席を引退。その直後の軍の大規模な人事異動において「楊家パージ」が起こったが、その後も隠然たる影響力を保持し、小平死去後は長老序列の1位に数えられていた。[渡邊幸秀]

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