第2次大戦後,連合国による日本の占領政策を遂行するために設けられた最高司令官の諮問機関。東京に開設。1945年12月,モスクワ外相会議において,極東委員会とともに設置が認められている。理事会は,アメリカ,ソ連,中華民国,イギリス(またはオーストラリア,ニュージーランド,インド)の4ヵ国で構成,議長には連合国最高司令官(代理)が任命された。理事会の目的は〈日本に対する降伏条件の実施,占領及び日本管理についての最高司令官との協議及び勧告〉とされ,最高司令官は〈緊急を要しない限り命令の発出に先立ち理事会と協議し,且つ通告する〉ことが義務づけられた。しかし実際には,マッカーサー元帥の対日理事会敵視やソ連のボイコット戦術などがあって十分にその機能が発揮されたとはいえない。議事は公開されたが,開会後,直ちに散会する場合が多かった。ただしソ連・中国代表が公職追放を厳しく要請,イギリス代表が農地改革の徹底,石炭産業の国有化に関する計画案を発表するなどの動きがあった。極東委員会におけると同様,朝鮮戦争前後から中国代表権問題,対日講和問題,警察予備隊創設問題等が激しく争われた。この段階でも日本の再軍備に関しては,ソ連の非難とは別にイギリス,中国が重大関心をもつ態度を表明,アメリカ側の発言に完全に同調する姿勢を示していない。52年4月28日対日講和条約の発効とともに,対日理事会は消滅した。
→対日占領政策
執筆者:高橋 彦博
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第二次世界大戦後、連合国が設置した対日占領管理機関の一つ。1945年(昭和20)12月モスクワで開かれた米英ソ三国外相会議においてワシントンに極東委員会、東京に対日理事会の設置が決定された。連合国最高司令官の諮問機関で、アメリカ、イギリス連邦、ソ連、中国の四者によって構成された。イギリス連邦は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インドの四か国を代表していた。
理事会は単なる諮問機関であり、ただ「管理制度や日本の基本的統治組織、日本政府全体の変更」に関する政策にのみ、最高司令官に協議が義務づけられていたが、適用例はなかった。1946年4月、第1回会議が開かれ、初期には農地改革をめぐって活発な論議が行われ、マッカーサー最高司令官への勧告案が採択(1946年6月)され、占領政策に一定の影響を与えたが、やがて、冷戦に伴う米ソの対立の激化のなかで、理事会は宣伝機関化し実質的討議の機能を失っていく。52年4月、対日講和条約の発効とともに消滅した。
[山田敬男]
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1945年(昭和20)12月に開かれた英・米・ソによるモスクワ外相会談の決定にもとづき,翌年2月極東委員会(本部ワシントン)と同時に東京に設置された。当初は米国による対日占領を連合国が監視する機能を期待されたが,米国政府がこれに反対した結果,連合国軍最高司令官に対する指揮命令権をもたない諮問・勧告機関となった。構成国は英・米・中・ソの4カ国,議長は米国代表で,初代はW.F.マーカット,その後G.アチソン,W.J.シーボルトが務めた。農地改革など初期占領政策に関し,英連邦代表のM.ボール(オーストラリア)を中心として政策形成に対する影響力を発揮した。
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