日本歴史地名大系 「槙村」の解説 槙村まきむら 高知県:吾川郡伊野町槙村[現在地名]伊野町槙仁淀(によど)川の支流早稲(さいな)川最上流域の山間部に位置する。土佐郡に属し、領家(りようけ)郷の一村。「土佐州郡志」に「東西三十五町南北二十五町」とみえ、当村に含まれる小村として総谷(そうだに)村・峰槙(みねまき)村・谷(たに)村を記す。天正一七年(一五八九)の領家山地検帳では槙名と同槙名(峰槙の地)とに分れ、名本と多くの百姓が記される。屋敷数二八。山村のわりには比較的水田の記載が多く、切畑も多い。同年の領家山切畑地検帳によると切畑は二町四反余。元禄地払帳では総地高九八石余、うち本田高七四石余・新田高二三石余。本田はすべて蔵入地、新田のうち貢物地一八石余、残りは二名の領知。 槙村まきむら 新潟県:西頸城郡能生町槙村[現在地名]能生町槙名立(なだち)谷の西蒲生田(にしかもうだ)村(現名立町)から花立(はなたて)峠を越え、能生谷の東谷内(ひがしたにうち)村・川詰(かわづめ)村・槙村・藤後(とうご)村・大沢(おおさわ)村へとたどる山道の要にあたる。能生川左岸に街村のように集落が並ぶ。正保国絵図に真木村として高八二石余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(伊藤新治家蔵)は三冊に分れ、田方九町五反四畝余・畑方二〇町三反一畝余、本田色高共高一五五石八斗余で、漆木一六本があり、屋敷持百姓二四人で、うち一人は能生町の五右衛門である。 槙村まきむら 兵庫県:三木市槙村[現在地名]三木市口吉川町槙(くちよかわちようまき)吉祥寺(きつしようじ)村の北西、美嚢(みの)川中流の吉川(よかわ)谷中央部付近に位置する。村名の由来は今来(いまき)の転訛で、渡来人の居住地であったという(美嚢郡誌)。正保郷帳に村名がみえ、田方三二六石余・畑方二〇石余で、幕府領。元禄郷帳では高四七八石余。延享元年(一七四四)から同三年までは大坂城代・出羽山形藩堀田氏領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)。 槙村まきむら 福岡県:朝倉郡夜須町槙村[現在地名]夜須町吹田(ふきだ)砥上(とかみ)岳の南西麓にある村。慶長石高帳に「牧村」とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高五三石余、うち大豆五石余(慶長石高帳)。元禄国絵図では吹田村枝郷として槙村があげられ、石高書上帳案の郡帳高は五五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by