弥勒寺跡(読み)みろくじあと

日本歴史地名大系 「弥勒寺跡」の解説

弥勒寺跡
みろくじあと

[現在地名]宇佐市南宇佐

宇佐神宮(八幡宮)神宮寺で、上宮のあるかめ山の北西、現在の宇佐神宮庁裏手から相撲場にかけて伽藍が広がっていたが、明治初年の神仏分離により廃寺となった。

〔草創〕

承和一一年(八四四)六月一七日の宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(石清水文書、以下、建立縁起と略称)や「宇佐託宣集」によれば、神亀二年(七二五)八幡宮が現在地である小椋おぐら(亀山)に遷座した際、東方日足ひあし(建立縁起では足林)の地に弥勒之禅院(建立縁起では弥勒足禅院)を建立したのが当寺の前身とされる。天平九年(七三七)小椋山の西の八幡宮境内地に同禅院を移して神宮寺となったといい、初代別当には法蓮(宇佐氏一族とされる)が任命されたという。「続日本紀」天平一三年閏三月二四日条によれば、前年の藤原広嗣の乱平定の功として八幡神宮に金字の最勝王経・法華経各一部、度者(得度者)一〇人などが施入され、三重塔一区を造立したとあり、これらは当寺にかかわるものであろう。なお建立縁起では同一五年に三重塔一基を建立したという。天平勝宝元年(七四九)弥勒寺塔・金堂・法堂・僧房など造立のため綿・稲を割いたとしている(宇佐託宣集)。同六年の厭魅事件により、翌七年八幡宮は封戸一千四〇〇戸と位田一四〇町を朝廷に返還したが(「続日本紀」同七歳三月二八日条)、延暦一七年(七九八)一二月二一日の太政官符(新抄格勅符抄)によれば、八幡神宮の封戸の庸・調と位田は大宰府の検知下に置かれて、造神宮寺料に充てられたという。宝亀三年(七七二)には妙法堂(四王堂)・礼堂、同一〇年には鐘(高さ七尺)が鋳造されており(建立縁起)、この頃に当寺伽藍の骨格が完成したと考えられている。

〔講師職と石清水八幡宮〕

天長六年(八二九)光恵の代に大宰府観世音かんぜおん寺・諸国国分寺の例に倣い別当を講師と改め、同職の任官は大宰府を経由してなされた。長保元年(九九九)には元命が講師に任命されている(「石清水祀官家系図」石清水文書)。元命は宇佐氏の出自といわれる(「石清水祀官家系図」東大史料編纂所蔵)。なお元命はのちに永宣旨を得て六年一任であった講師職を終身化した。元命の子戒信は講師職、同清成は惣検校職を譲られたが、惣検校清成には末寺・末宮および所領・庄園の支配権が移り、当寺の権限は両職に二分された(「八幡別当令兼任弥勒寺講師例」石清水文書)。寛弘年中(一〇〇四―一二)に藤原道長が境内に喜多きた院・法華堂・常行堂を建立(文永元年九月二三日「弥勒寺領奉寄次第」益永家記録)、以後喜多院が当寺の中核的塔頭となる。


弥勒寺跡
みろくじあと

[現在地名]関市池尻

長良川に架かる鮎之瀬あゆのせ橋の北北東二〇〇メートルにある白鳳期の寺院跡。当寺の瓦窯である現美濃市の丸山まるやま古窯跡とともに国指定史跡となっており、現在、跡地内に天台寺門宗弥勒寺がある。牟義都国造の後裔とされる身毛君氏が、壬申の乱後の白鳳期後半に氏寺として創建したと考えられる。現揖斐いび谷汲たにぐみ村の横蔵よこくら寺蔵の大般若波羅蜜多経の永和四年(一三七八)四月七日の奥書に「武儀郡池尻郷於弥勒寺良厳坊書写畢」とあるが、戦国期に織田信長によって焼かれたと伝える。出土瓦は焼けて茶褐色もしくは白褐色で、塔跡付近から出土した相輪の一部と思われる青銅片も溶けており、火災によって廃寺となったと考えられる。元禄二年(一六八九)円空が再興したが、その弟子円舜の享保一五年(一七三〇)の弥勒寺境内覚書(塩谷文書)によると、現状の堂・庫裏と大差がみられない。


弥勒寺跡
みろくじあと

[現在地名]真玉町城前 下城前

真玉川支流の西払にしばらい川右岸に三社大権現と境内を隣り合せて立地した。六郷山諸寺院の一つとされ、霊場または修験者の行場であったものが、のち寺基を整えて天台系寺院となったのであろう。寺院としては一八世紀半ばには退転したようであるが、信仰は廃れることなく、昭和五〇年(一九七五)には堂を新築、下城前の尾南しもじようのまえのおみなみ・西払・重野しげの地区により管理されている。山号は唐渓山。本尊弥勒菩薩。一六世紀半ばの成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)には中山本寺の末寺としてみえる。元禄一四年(一七〇一)の大岩屋山応暦寺方境(応暦寺蔵)によると弥勒寺末坊として谷之たにの坊・庵実あんじつ坊・上之うえの坊・慈連じれん坊・下之したの坊の五坊が記される。


弥勒寺跡
みろくじあと

[現在地名]松山市食場町

食場じきば弥勒寺山とよぶ所があり、ここが伊予国の定額寺の跡といわれる。また付近に大門だいもん弥勒堂みろくどう毘沙門堂びしやもんどう薬師堂やくしどうとよばれる地名がある(伊予温故録)。「類聚国史」天長五年(八二八)冬一〇月三日の条に「美濃国菩提寺、伊与国弥勒寺、肥後国浄水寺、預定額寺」とあり承和七年(八四〇)九月八日の条に「以伊予国温泉郡定額寺、為天台別院」とあり、天台別院となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「弥勒寺跡」の解説

みろくじあと【弥勒寺跡】


弥勒寺官衙遺跡群(みろくじかんがいせきぐん)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の弥勒寺跡の言及

【関[市]】より

…近年,自動車部品製造工場も進出している。新長谷寺(しんちようこくじ)(吉田(きつた)観音)には重要文化財の堂宇や仏像があり,古代に当地を支配した身毛君一族の氏寺といわれる弥勒寺跡(史),刀工が崇敬した春日神社もある。春日神社所蔵の能装束類は重要文化財。…

※「弥勒寺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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