樫谷村(読み)かしだにむら

日本歴史地名大系 「樫谷村」の解説

樫谷村
かしだにむら

[現在地名]松野町富岡とみおか

吉野よしの川の支流堀切ほりきり川に沿う谷間に位置する。北は松丸まつまる村、南は目黒めぐろ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「樫谷村 深山続キ柴山有」と村名がみえる。「墅截」、宝永三年(一七〇六)の「大成郡録」によると、当村は本村ほんむら蕗野々ふきのの久米地くめじ小屋之川こやのかわの四組に分れていた。天明二年(一七八二)に村方の世直しのため、富岡村と改称された。宇和島藩領。

太閤検地石高は七九七石四斗四升で、耕地面積の比率は田七七パーセント、畑二三パーセント。寛文検地では石高が二〇パーセントも減少し、田七五パーセント、畑二五パーセントとなっている。「墅截」によると村柄は「中」、田畑はともに「下」とされ、水掛りは「吉」となっている。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田八反、畑一反四畝二一歩で、百姓数は六五人、うち本百姓四二人、半百姓一六人、四半百姓六人、庄屋一人であった。


樫谷村
かしだにむら

[現在地名]牧村樫谷

飯田いいだ川支流樫谷川流域にあり、東はいずみ村、北は川井沢かわいざわ村・大月おおつき村、南は国川こくがわ村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所宇津郷扱かし谷村 下」とあり、本納五石六斗・縄高一五石九斗三升四合、家一軒・六人。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二九石余。天和三年郷帳では高七二石四斗余、うち山高二斗七升一合・漆高一石二斗六升・青苧高四斗七升七合、反別田一町五反余・畑屋敷一五町余・山林一四町一反余・青苧畑五畝余、漆木一二六本、家数一〇。安永九年(一七八〇)新田検地では高二七石七斗余・反別三町四反余(牧村郷土誌)


樫谷村
かしのたにむら

[現在地名]土佐山田町樫ノ谷

四手藤しでとう村の西北、穴内あなない川沿岸に集落が点在する。長岡郡に属し、本山もとやま(現長岡郡本山町など)の南西端の地で、江戸時代は上倉あげくら郷に含まれた。

天正一六年(一五八八)の本山分樫之谷地検帳によれば総地積一二町八反二二代四歩、うち本田は一反余、屋敷畠九反余と少なく、切畑が一一町八反余を占める。屋敷地二反三〇代二歩をもつ名本の神兵衛の給地が多いが、半分は自作農民がそれぞれ耕作しているのが注目される。屋敷は七筆でうち六筆が居屋敷。切畑の作物として稗・小豆・蕎麦・芋・粟が記される。江戸時代は元禄地払帳によると本田高一〇・四三二石はすべて浅利甚丞の知行地


樫谷村
かしだにむら

[現在地名]黒川村坪穴つぼあな

高坪たかつぼ山南麓、胎内たいない川右岸にあり、南東は坪穴村に接する。正保国絵図に村名がみえ、高三二石余。村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、正徳二年(一七一二)以降旗本松平領。北方大沢おおさわ山は近郷一七ヵ村の入会山で度度入会相論があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android