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高陽院 かやのいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高陽院
かやのいん

[生]嘉保2(1095).京都
[没]久寿2(1155).12.16. 京都
鳥羽上皇の皇后。賀陽院とも書く。関白藤原忠実の娘,母は源師子。名は勲子,のち泰子と改めた。鳥羽天皇践祚の初め,白河上皇は高陽院を天皇の宮に入れようとしたが,忠実がこれを固辞した。白河上皇が没し,鳥羽上皇の院政となって,長承3 (1134) 年についに皇后となり,改名。院の立后は未曾有のことである。のち美福門院 (藤原得子) のためにその寵衰え,保延5 (1139) 年院号宣下によって高陽院と号し,永治1 (1141) 年落飾,法名は清浄理という。山城国白河福勝院護摩堂に葬られた。

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デジタル大辞泉の解説

かや‐の‐いん〔‐ヰン〕【高陽院/賀陽院】

平安京の中御門大路南、大炊御門大路北にあった、桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅。後冷泉(ごれいぜい)後三条天皇里内裏(さとだいり)ともなり、のち藤原頼通の邸となる。貞応2年(1223)焼亡
[1095~1155]鳥羽上皇皇后。名は勲子(くんし)、のち泰子(たいし)と改名。保延5年(1139)院号宣下。

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百科事典マイペディアの解説

高陽院【かやいん】

賀陽院とも。平安京にあった桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅。南北・東西ともに2町で,現在の京都市中京区と上京区に所在した。のち藤原頼通の邸となり拡張された。建物は内裏の清涼殿にみなして造られ,壮麗なさまは〈この世のことゝ見えず〉(《栄花物語》)といわれた。
→関連項目大番舎人橘御薗

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高陽院 かやのいん

1095-1156* 平安時代後期,鳥羽(とば)上皇の皇后。
嘉保(かほう)2年生まれ。藤原忠実(ただざね)の娘。母は源師子(しし)。鳥羽上皇につかえ,長承3年(1134)皇后となり,名を勲子(くんし)から泰子(たいし)とあらためる。上皇が皇后をたてたはじめての例である。保延(ほうえん)5年高陽院の号をうけ,のち出家した。久寿2年12月16日死去。61歳。法名は清浄理。

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朝日日本歴史人物事典の解説

高陽院

没年:久寿2.12.16(1156.1.10)
生年:嘉保2(1095)
平安後期の女院。鳥羽上皇の皇后。名は藤原泰子。関白藤原忠実と源師子の娘。父忠実は,白河法皇より娘の入内を望まれた際これを固辞したにもかかわらず,鳥羽天皇よりの入内要請は承諾したため法皇の逆鱗に触れ,保安1(1120)年内覧を停止(事実上の関白解任)された。以後,白河法皇在世中は父は籠居し,娘も不婚で過ごした。忠実の入内固辞は白河法皇の後宮の乱れにあったともいうが,専制化を強める院と摂関家との緊張関係が表面化した事件といえる。鳥羽院政が開始されると長承2(1133)年,白河法皇の遺言に反して39歳で鳥羽上皇の後宮に入り,勲子と名乗った。翌年皇后となり泰子と改名。上皇の妃の立后は前代未聞とされた。保延5(1139)年院号宣下,永治1(1141)年出家。上皇の寵愛は薄かったが,聡明で上皇と忠実の間をよく結んだ。弟忠通・頼長間の調停にも努め,彼女の死は頼長にとって大きな打撃となった。

(中込律子)

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世界大百科事典 第2版の解説

かやいん【高陽院】

1095‐1155(嘉保2‐久寿2)
平安後期の皇后,初名勲子,のち泰子と改名。宇治のきさきともいう。父は関白太政大臣藤原忠実,母は右大臣源顕房の女師子。鳥羽天皇の践祚後まもなく,白河上皇は泰子の入内を忠実に勧めるが,忠実はこれを固辞した。しかしやがて鳥羽天皇が泰子の入内を求めると,忠実はこれを承知したために上皇の気分を損じ,忠実の内覧停止,関白の解任に至る。その後,鳥羽天皇は譲位して太上天皇になったが,白河上皇が没した4年後の1133年(長承2)に泰子は鳥羽上皇の女御となり,翌年准三宮になり勲子の名を賜ったが,まもなく皇后に冊立されて泰子と改名した。

かやいん【高陽院】

賀陽院とも書く。桓武天皇皇子の賀陽親王にはじまる邸宅。平安京西洞院大路の西,大炊御門大路の北。当初は南北2町であったが,11世紀中ごろには4町四方の広さを有していたらしい。この邸が歴史の舞台に登場するのは,11世紀に入って摂関藤原頼通の所有となってからである。頼通の造作を経て豪華絢爛な寝殿造が出現した。その様子は,1024年(万寿1)秋に挙行された競馬(くらべうま)に後一条天皇が行幸した光景を描いた《栄華物語》(こまくらべの行幸)および《駒競行幸絵巻》によってつぶさに知ることができる。

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世界大百科事典内の高陽院の言及

【里内裏】より

…そして仮皇居の使用が頻繁になると,内裏の有無にかかわらず,別に皇居として造作された殿第も現れた。〈今内裏〉とたたえられた一条院をはじめ,後冷泉天皇の高陽(かや)院,白河天皇の六条院,鳥羽天皇の大炊(おおい)殿・土御門(つちみかど)烏丸殿などがそれで,これを一時的に皇居に充てた臣下の殿第や上皇の御所に対し,里亭(第)皇居とよんだ例もある。こうして平安内裏=大内と里内裏=里内の併存が恒常化すると,大内には即位,大嘗会などの大儀や方違(かたたがえ)のため一時的に行幸するにとどまり,里内が平常の皇居となり,通常の公事もここで行われた。…

【平安時代美術】より

…東三条殿,堀川殿,閑院は前期に出現した古い歴史と由緒の邸宅で,中期には里内裏として多く利用された。また,道長の土御門京極殿,頼通の高陽院(かやいん)が権勢と栄華の盛りに修造され,里内裏にも利用された。これらの邸宅のつくりは,貴族住宅としてその形式成立に長い歴史をもつ寝殿造の到達点を示すもので,最高の水準と最大の規模とを誇示するものであった。…

※「高陽院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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