賀陽院とも書く。桓武天皇皇子の賀陽親王にはじまる邸宅。平安京西洞院大路の西,大炊御門大路の北。当初は南北2町であったが,11世紀中ごろには4町四方の広さを有していたらしい。この邸が歴史の舞台に登場するのは,11世紀に入って摂関藤原頼通の所有となってからである。頼通の造作を経て豪華絢爛な寝殿造が出現した。その様子は,1024年(万寿1)秋に挙行された競馬(くらべうま)に後一条天皇が行幸した光景を描いた《栄華物語》(こまくらべの行幸)および《駒競行幸絵巻》によってつぶさに知ることができる。この邸は頼通,師実,師通,忠実といったように摂関家に伝領され,その間に後冷泉,後三条,白河,堀河,鳥羽の各天皇の里内裏(さとだいり)となるなどまさに〈累代の皇居〉であった。たびたびの焼亡にあいながらもすぐに再建されている。鎌倉時代,承久の乱のとき後鳥羽上皇を中心に謀議がなされた舞台は,当時,院御所となっていたこの邸であった。1223年(貞応2)の放火で焼失し,再建されることはなかった。鳥羽上皇の皇后泰子を高陽院と称するのは,この邸に居住したことによっている。
執筆者:朧谷 寿
平安後期の皇后,初名勲子,のち泰子と改名。宇治のきさきともいう。父は関白太政大臣藤原忠実,母は右大臣源顕房の女師子。鳥羽天皇の践祚後まもなく,白河上皇は泰子の入内を忠実に勧めるが,忠実はこれを固辞した。しかしやがて鳥羽天皇が泰子の入内を求めると,忠実はこれを承知したために上皇の気分を損じ,忠実の内覧停止,関白の解任に至る。その後,鳥羽天皇は譲位して太上天皇になったが,白河上皇が没した4年後の1133年(長承2)に泰子は鳥羽上皇の女御となり,翌年准三宮になり勲子の名を賜ったが,まもなく皇后に冊立されて泰子と改名した。39年(保延5)院号を授けられ高陽院と称したが,美福門院が台頭してくると41年(永治1)に落飾して法名を清浄理と号した。爾来,仏法三昧の生涯を送ったが,55年12月16日土御門殿において61歳の生涯を閉じた。
執筆者:米田 雄介
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(中込律子)
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賀陽院とも書く。鳥羽(とば)上皇の皇后。名は勲子(くんし)、のち泰子(たいし)と改める。藤原忠実(ただざね)の娘、母は源顕房(あきふさ)の娘師子。鳥羽上皇は、最初の皇后である待賢門院(たいけんもんいん)との不和から、白河(しらかわ)法皇の遺言に背いて高陽院を入内(じゅだい)させ女御(にょうご)とし、さらに上皇となってから異例の立后をさせ非難を受けた。上皇は高陽院に男子誕生を期待したが、女子しか生まれなかったので、新たに美福門院(びふくもんいん)を入内させ、彼女に皇子(後の近衛(このえ)天皇)が誕生したことで高陽院の立場は悪くなった。1139年(保延5)院号宣下、41年(永治1)落飾、久寿(きゅうじゅ)2年12月16日死去。墓は京都市左京区吉田近衛町にあったと伝える福勝院(ふくしょういん)。
[川島茂裕]
桓武(かんむ)天皇の皇子、賀陽(かや)親王の邸宅。平安京左京中御門(なかみかど)の南、大炊御門(おおいのみかど)の北、堀川(ほりかわ)の東、西洞院(にしのとういん)の西にあったといわれる。現在の二条城の北東部、上京(かみぎょう)区と中京(なかぎょう)区の境一帯にあたる。のちに藤原摂関家の邸宅となり、頼通(よりみち)のとき拡張され、このようすが『栄花(えいが)物語』などに描写されている。鳥羽(とば)上皇皇后泰子(たいし)を高陽院と称するのは、ここに住したことにちなむ。鎌倉時代に放火のため焼亡、以降造営されることもなかった。
[川島茂裕]
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…そして仮皇居の使用が頻繁になると,内裏の有無にかかわらず,別に皇居として造作された殿第も現れた。〈今内裏〉とたたえられた一条院をはじめ,後冷泉天皇の高陽(かや)院,白河天皇の六条院,鳥羽天皇の大炊(おおい)殿・土御門(つちみかど)烏丸殿などがそれで,これを一時的に皇居に充てた臣下の殿第や上皇の御所に対し,里亭(第)皇居とよんだ例もある。こうして平安内裏=大内と里内裏=里内の併存が恒常化すると,大内には即位,大嘗会などの大儀や方違(かたたがえ)のため一時的に行幸するにとどまり,里内が平常の皇居となり,通常の公事もここで行われた。…
…東三条殿,堀川殿,閑院は前期に出現した古い歴史と由緒の邸宅で,中期には里内裏として多く利用された。また,道長の土御門京極殿,頼通の高陽院(かやいん)が権勢と栄華の盛りに修造され,里内裏にも利用された。これらの邸宅のつくりは,貴族住宅としてその形式成立に長い歴史をもつ寝殿造の到達点を示すもので,最高の水準と最大の規模とを誇示するものであった。…
※「高陽院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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