高陽院(読み)カヤノイン

デジタル大辞泉 「高陽院」の意味・読み・例文・類語

かや‐の‐いん〔‐ヰン〕【高陽院/賀陽院】

平安京の中御門大路南、大炊御門大路北にあった、桓武天皇皇子賀陽かや親王の邸宅。後冷泉ごれいぜい後三条天皇里内裏さとだいりともなり、のち藤原頼通の邸となる。貞応2年(1223)焼亡。
[1095~1155]鳥羽上皇の皇后。名は勲子くんし、のち泰子たいしと改名。保延5年(1139)院号宣下。

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精選版 日本国語大辞典 「高陽院」の意味・読み・例文・類語

かや‐の‐いん‥ヰン【高陽院・賀陽院】

  1. 桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅といわれる。平安京の中御門大路の南、西洞院大路の西、堀川小路の東、大炊御門小路の北にあった。天喜元年(一〇五三)以降、後冷泉、後三条、白河天皇の仮皇居ともなる。のち、藤原頼通邸。延喜五年(九〇五焼失の初見の後、再建と焼失をくり返した。かやいん。

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改訂新版 世界大百科事典 「高陽院」の意味・わかりやすい解説

高陽院 (かやいん)

賀陽院とも書く。桓武天皇皇子の賀陽親王にはじまる邸宅。平安京西洞院大路の西,大炊御門大路の北。当初は南北2町であったが,11世紀中ごろには4町四方の広さを有していたらしい。この邸が歴史の舞台に登場するのは,11世紀に入って摂関藤原頼通の所有となってからである。頼通の造作を経て豪華絢爛寝殿造が出現した。その様子は,1024年(万寿1)秋に挙行された競馬(くらべうま)に後一条天皇が行幸した光景を描いた《栄華物語》(こまくらべの行幸)および《駒競行幸絵巻》によってつぶさに知ることができる。この邸は頼通,師実,師通,忠実といったように摂関家に伝領され,その間に後冷泉,後三条,白河,堀河,鳥羽の各天皇の里内裏(さとだいり)となるなどまさに〈累代の皇居〉であった。たびたびの焼亡にあいながらもすぐに再建されている。鎌倉時代,承久の乱のとき後鳥羽上皇を中心に謀議がなされた舞台は,当時,院御所となっていたこの邸であった。1223年(貞応2)の放火で焼失し,再建されることはなかった。鳥羽上皇の皇后泰子を高陽院と称するのは,この邸に居住したことによっている。
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高陽院 (かやいん)
生没年:1095-1155(嘉保2-久寿2)

平安後期の皇后,初名勲子,のち泰子と改名。宇治のきさきともいう。父は関白太政大臣藤原忠実,母は右大臣源顕房の女師子。鳥羽天皇の践祚後まもなく,白河上皇は泰子の入内を忠実に勧めるが,忠実はこれを固辞した。しかしやがて鳥羽天皇が泰子の入内を求めると,忠実はこれを承知したために上皇の気分を損じ,忠実の内覧停止,関白の解任に至る。その後,鳥羽天皇は譲位して太上天皇になったが,白河上皇が没した4年後の1133年(長承2)に泰子は鳥羽上皇の女御となり,翌年准三宮になり勲子の名を賜ったが,まもなく皇后に冊立されて泰子と改名した。39年(保延5)院号を授けられ高陽院と称したが,美福門院が台頭してくると41年(永治1)に落飾して法名を清浄理と号した。爾来,仏法三昧の生涯を送ったが,55年12月16日土御門殿において61歳の生涯を閉じた。
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百科事典マイペディア 「高陽院」の意味・わかりやすい解説

高陽院【かやいん】

賀陽院とも。平安京にあった桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅。南北・東西ともに2町で,現在の京都市中京区と上京区に所在した。のち藤原頼通の邸となり拡張された。建物は内裏の清涼殿にみなして造られ,壮麗なさまは〈この世のことゝ見えず〉(《栄花物語》)といわれた。摂関家に伝領されるが,後朱雀(ごすざく)天皇などの里内裏(さとだいり)となり,鳥羽天皇皇后泰子はこの邸に住んで高陽院と称された。承久の乱の際には後鳥羽上皇の院御所であった当院で謀議がなされた。1223年焼亡。
→関連項目大番舎人橘御薗

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朝日日本歴史人物事典 「高陽院」の解説

高陽院

没年:久寿2.12.16(1156.1.10)
生年:嘉保2(1095)
平安後期の女院。鳥羽上皇の皇后。名は藤原泰子。関白藤原忠実と源師子の娘。父忠実は,白河法皇より娘の入内を望まれた際これを固辞したにもかかわらず,鳥羽天皇よりの入内要請は承諾したため法皇の逆鱗に触れ,保安1(1120)年内覧を停止(事実上の関白解任)された。以後,白河法皇在世中は父は籠居し,娘も不婚で過ごした。忠実の入内固辞は白河法皇の後宮の乱れにあったともいうが,専制化を強める院と摂関家との緊張関係が表面化した事件といえる。鳥羽院政が開始されると長承2(1133)年,白河法皇の遺言に反して39歳で鳥羽上皇の後宮に入り,勲子と名乗った。翌年皇后となり泰子と改名。上皇の妃の立后は前代未聞とされた。保延5(1139)年院号宣下,永治1(1141)年出家。上皇の寵愛は薄かったが,聡明で上皇と忠実の間をよく結んだ。弟忠通・頼長間の調停にも努め,彼女の死は頼長にとって大きな打撃となった。

(中込律子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高陽院」の意味・わかりやすい解説

高陽院(皇后)
かやのいん
(1095―1155)

賀陽院とも書く。鳥羽(とば)上皇の皇后。名は勲子(くんし)、のち泰子(たいし)と改める。藤原忠実(ただざね)の娘、母は源顕房(あきふさ)の娘師子。鳥羽上皇は、最初の皇后である待賢門院(たいけんもんいん)との不和から、白河(しらかわ)法皇の遺言に背いて高陽院を入内(じゅだい)させ女御(にょうご)とし、さらに上皇となってから異例の立后をさせ非難を受けた。上皇は高陽院に男子誕生を期待したが、女子しか生まれなかったので、新たに美福門院(びふくもんいん)を入内させ、彼女に皇子(後の近衛(このえ)天皇)が誕生したことで高陽院の立場は悪くなった。1139年(保延5)院号宣下、41年(永治1)落飾、久寿(きゅうじゅ)2年12月16日死去。墓は京都市左京区吉田近衛町にあったと伝える福勝院(ふくしょういん)。

[川島茂裕]


高陽院(邸宅)
かやのいん

桓武(かんむ)天皇の皇子、賀陽(かや)親王の邸宅。平安京左京中御門(なかみかど)の南、大炊御門(おおいのみかど)の北、堀川(ほりかわ)の東、西洞院(にしのとういん)の西にあったといわれる。現在の二条城の北東部、上京(かみぎょう)区と中京(なかぎょう)区の境一帯にあたる。のちに藤原摂関家の邸宅となり、頼通(よりみち)のとき拡張され、このようすが『栄花(えいが)物語』などに描写されている。鳥羽(とば)上皇皇后泰子(たいし)を高陽院と称するのは、ここに住したことにちなむ。鎌倉時代に放火のため焼亡、以降造営されることもなかった。

[川島茂裕]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高陽院」の意味・わかりやすい解説

高陽院
かやのいん

[生]嘉保2(1095).京都
[没]久寿2(1155).12.16. 京都
鳥羽上皇の皇后。賀陽院とも書く。関白藤原忠実の娘,母は源師子。名は勲子,のち泰子と改めた。鳥羽天皇践祚の初め,白河上皇は高陽院を天皇の宮に入れようとしたが,忠実がこれを固辞した。白河上皇が没し,鳥羽上皇の院政となって,長承3 (1134) 年についに皇后となり,改名。院の立后は未曾有のことである。のち美福門院 (藤原得子) のためにその寵衰え,保延5 (1139) 年院号宣下によって高陽院と号し,永治1 (1141) 年落飾,法名は清浄理という。山城国白河福勝院護摩堂に葬られた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高陽院」の解説

高陽院 かやのいん

1095-1156* 平安時代後期,鳥羽(とば)上皇の皇后。
嘉保(かほう)2年生まれ。藤原忠実(ただざね)の娘。母は源師子(しし)。鳥羽上皇につかえ,長承3年(1134)皇后となり,名を勲子(くんし)から泰子(たいし)とあらためる。上皇が皇后をたてたはじめての例である。保延(ほうえん)5年高陽院の号をうけ,のち出家した。久寿2年12月16日死去。61歳。法名は清浄理。

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世界大百科事典(旧版)内の高陽院の言及

【里内裏】より

…そして仮皇居の使用が頻繁になると,内裏の有無にかかわらず,別に皇居として造作された殿第も現れた。〈今内裏〉とたたえられた一条院をはじめ,後冷泉天皇の高陽(かや)院,白河天皇の六条院,鳥羽天皇の大炊(おおい)殿・土御門(つちみかど)烏丸殿などがそれで,これを一時的に皇居に充てた臣下の殿第や上皇の御所に対し,里亭(第)皇居とよんだ例もある。こうして平安内裏=大内と里内裏=里内の併存が恒常化すると,大内には即位,大嘗会などの大儀や方違(かたたがえ)のため一時的に行幸するにとどまり,里内が平常の皇居となり,通常の公事もここで行われた。…

【平安時代美術】より

…東三条殿,堀川殿,閑院は前期に出現した古い歴史と由緒の邸宅で,中期には里内裏として多く利用された。また,道長の土御門京極殿,頼通の高陽院(かやいん)が権勢と栄華の盛りに修造され,里内裏にも利用された。これらの邸宅のつくりは,貴族住宅としてその形式成立に長い歴史をもつ寝殿造の到達点を示すもので,最高の水準と最大の規模とを誇示するものであった。…

※「高陽院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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