日本大百科全書(ニッポニカ) 「殊号事件」の意味・わかりやすい解説
殊号事件
しゅごうじけん
殊号とは特別な称号の意味で、この場合は将軍の呼び名をいう。この事件の中核は、3代将軍徳川家光(いえみつ)(在位1623~51)のとき、日朝外交文書に「日本国大君」の称号を用いることになり、それが慣例となっていたのを、6代家宣(いえのぶ)のときに変更して「日本国王」と改めたことにある。「日本国大君」の適用は1636年(寛永13)に始まるが、それは1616年(元和2)の将軍からの国書に「日本国源秀忠(ひでただ)」とあるのに対馬(つしま)藩でこっそり王の字を加えて朝鮮に送ったことが発覚し、対馬の家老らが処罰されたことから、ふたたび同様の不祥事が起こらないようにこの新称号の採用となったものである。ところが家宣の代に新井白石(あらいはくせき)がこれを不当とし、家康のときの例に復すべきことを多くの反対を押し切って進言したのが認められて1711年(正徳1)の朝鮮使来日の際には「日本国王」号となった。その理由は、大君の称号はわが日本においては天皇の称を侵すことになり、朝鮮では王子の嫡子を意味するから、この称を用いるのは朝鮮側の軽蔑(けいべつ)を招く結果となり、これに対して国王号は、室町時代の将軍にはもちろん、家康のときすでに先例があり(ただし家康のときには国王の称号は用いられていない――これは白石の誤解)、朝鮮側でも望むところである、というにあった。
また国際的観点から、日本天皇の下の徳川将軍と中国清(しん)朝の天子の下の朝鮮国王とは、対等となってつり合うとの認識を白石はもっていた。しかもこの称号は外交文書においてのみ用いようとしたのだから、将軍を天皇の地位に引き上げ名実ともに日本国の主権者としようとしたという非難はあたらない。当時江戸にきていた将軍家宣の岳父で前関白の近衛基煕(このえもとひろ)(その娘が将軍家宣の正夫人)と相談していたと推測されることからも、そういえよう。しかしこの国王号はこのときだけで、8代吉宗(よしむね)の代からは5代綱吉(つなよし)のときの例に倣い大君に復している。この事件については、白石の著作『殊号事略(しゅごうじりゃく)』『国書復号紀事(こくしょふくごうきじ)』に詳しい(『新井白石全集 第3・4巻』所収)。
[宮崎道生]
『三浦周行著『日本史の研究 第2輯』(1930/復刊・1981・岩波書店)』▽『栗田元次著『新井白石の文治政治』(1952・石崎書店)』▽『宮崎道生著『新井白石の研究』(1966・吉川弘文館)』