雨森芳洲(読み)アメノモリホウシュウ

デジタル大辞泉 「雨森芳洲」の意味・読み・例文・類語

あめのもり‐ほうしゅう〔‐ハウシウ〕【雨森芳洲】

[1668~1755]江戸中期の儒学者。近江おうみの人。名は俊良、あざなは伯陽。朝鮮語中国語をよくし、対馬つしま藩に仕えて文教・外交に活躍。著「橘窓文集」「たわれ草」など。

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精選版 日本国語大辞典 「雨森芳洲」の意味・読み・例文・類語

あめのもり‐ほうしゅう‥ハウシウ【雨森芳洲】

  1. 江戸中期の儒学者。京都の人。名は俊良。木下順庵に学ぶ。朝鮮語、中国語に通じ、対馬藩の文教と対朝鮮外交を担当。主著「橘窓(きっそう)文集」「橘窓茶話」「朝鮮践好沿革志」等。寛文八~宝暦五年(一六六八‐一七五五

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朝日日本歴史人物事典 「雨森芳洲」の解説

雨森芳洲

没年:宝暦5.1.6(1755.2.16)
生年:寛文8.5.17(1668.6.26)
江戸中期の対馬藩の儒学者。清納の子。通称は東五郎,朝鮮では雨森東の名で知られる。初め俊良,のち対馬藩主宗義誠より諱の1字を与えられ誠清と称する。字は伯陽。号は芳洲,橘窓,尚絅堂。生まれは近江国(滋賀県)伊香郡高月の雨森,一説に町医者だった父が開業していた京都とも。生家の関係で初め医学を志すが,やがて儒学へ転向。伊藤仁斎らを生んだ当時の京都の学風に影響されたといわれる。18歳のころ江戸で木下順庵の門下に入り,新井白石,室鳩巣らと共に木門の五先生と尊称されるまでになり,22歳で師の推挙により対馬藩の儒者に就任。26歳で対馬に渡り,朝鮮方佐役となる。 役目柄,朝鮮関係の諸事にあずかるため,改めて中国語と朝鮮語を習得し,通信使来日に際しては真文役となって江戸へ随行,また参判使や裁判役など外交使節として朝鮮へ赴き日朝外交の実務に精通するなど,他の儒者にみられない異彩を放つ。幕府との折衝にも尽力し,徳川家宣の政治顧問となった白石と,通信使の待遇や国王号の改変を巡って議論を戦わせ(1711),貿易立藩対馬の立場から銀輸出にかかわる経済論争を展開(1714)。享保6(1721)年藩内に朝鮮訳官による密貿易事件が起こり,穏便に処理して癒着を図る藩当局に対し,同門の儒者松浦霞沼と共に,以後の密貿易根絶のため厳罰主義を内容とする「潜商議論」で反論した。このとき自説を容認されなかったため,朝鮮方佐役を辞任し,家督までも長男顕之允に譲って隠居を図るなどして当局に抵抗,藩政に対しても厳しい態度をもって臨んだ。 こうした体験を通じて,真の交流とは何かを常に問い続け,やがて『交隣提醒』(1728)に「互いに不欺,不争,真実を以て交り候を誠信とは申し候」とする誠信外交の道を説く。この持論に共感した訳官の玄徳潤は倭館の訳官屋改築の機会にこれを「誠信堂」と命名し,その志に対して芳洲が『誠信堂記』(1730)を著した逸話は有名である。また交流の場で重要な役割を果たす通訳に光を当て,その待遇改善を図る一方,享保12(1727)年,後進の教育のために藩を説得して朝鮮語通詞養成所を対馬府中に創設した。明治期まで多くの名通詞を輩出させるこの学校では,才智,篤実,学問を備えた通詞育成を理想に,自らの教科書『交隣須知』や当時軽視されていたハングルで書かれた小説を教材に用いるなど,芳洲独自の教育理念・方法が貫かれている。80歳を過ぎてなお向学心の衰えることなく,『古今和歌集』1千遍を誦じ,自らも1万首を目標に詠歌すること余念がなかった。著書に,『天竜院公実録』『朝鮮風俗考』『全一道人』『隣交始末物語』『治要管見』『橘窓茶話』『多波礼具佐』『芳洲詠草』などがある。<参考文献>『雨森芳洲全書』,中村栄孝『日鮮関係史の研究』下,上垣外憲一『雨森芳洲』,田代和生「対馬藩の朝鮮語通詞」(『史学』60巻4号)

(田代和生)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雨森芳洲」の意味・わかりやすい解説

雨森芳洲
あめのもりほうしゅう
(1668―1755)

江戸中期の儒者。名は俊良(しゅんりょう)、東(とう)、誠清(のぶきよ)。通称東五郎、字(あざな)は伯陽(はくよう)。芳洲、尚絅堂(しょうけいどう)、橘窓(きっそう)と号した。寛文(かんぶん)8年5月生まれ。近江(おうみ)国伊香(いか)郡雨森村(滋賀県長浜(ながはま)市)出身。12、13歳ごろ医を志して家業を継ごうとしたが、18歳で江戸に出て幕府儒官の木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門。1689年(元禄2)師順庵の推薦で対馬(つしま)藩儒となり、長崎と釜山(ふざん)に遊学して中国語と朝鮮語を本格的に学び、文教と外交の両面で活躍、ことに朝鮮使節の応接に功績があった。同門の新井白石(あらいはくせき)とはしばしば対立したが敬愛は変わらず、また徂徠(そらい)学派の人々と交流があった。『交隣提醒(こうりんていせい)』『橘窓茶話(さわ)』『たはれぐさ』などを執筆。晩年は和歌にも親しみ、宝暦(ほうれき)5年1月6日、88歳で没した。郷里に芳洲書院がある。

[高橋博巳 2016年4月18日]

『映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社)』『中村幸彦著「雨森芳洲とその交友」(『中村幸彦著述集 第11巻』1982・中央公論社・所収)』

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百科事典マイペディア 「雨森芳洲」の意味・わかりやすい解説

雨森芳洲【あめのもりほうしゅう】

江戸中期の朱子学者。絅尚堂,橘窓と号する。滋賀県高月町(現・長浜市)に医師の子として生まれる。江戸で木下順庵に儒学を学び,その推挙で対馬藩に仕えた。朝鮮語,中国語に通じ,対馬藩の主要政務である朝鮮との善隣外交に活躍した。1711年の朝鮮通信使の来日に際して,将軍徳川家宣の〈日本国王〉号に反対し,同門出身の新井白石と鋭く対立したのは有名。朝鮮語教科書の《交隣須知》のほか,《交隣提醒》《たはれ草》《橘窓茶話》などの著がある。
→関連項目儒家神道

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改訂新版 世界大百科事典 「雨森芳洲」の意味・わかりやすい解説

雨森芳洲 (あめのもりほうしゅう)
生没年:1668-1755(寛文8-宝暦5)

江戸中期の朱子学者。名は俊良または誠清,字は伯陽,通称は東五郎。芳洲,絅尚堂,橘窓と号する。木下順庵の高弟で,その推薦により対馬藩に仕え,この藩の主要政務である朝鮮との応接に活躍,朝鮮語,中国語に通じその声名は内外に高かった。また名分を重んじ,同門の新井白石と将軍王号問題で論争した。著書に《橘窓文集》《たはれ草》その他があり,また朝鮮関係の著に《朝鮮践好沿革志》《雞林聘事録》《交隣提醒》などがある。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「雨森芳洲」の解説

雨森芳洲
あめのもりほうしゅう

1668.5.17~1755.1.6

江戸中期の儒学者。名は東・俊良・誠清(のぶきよ),字は伯陽,通称は東五郎。号は芳洲・尚絅(しょうけい)堂。近江国伊香郡雨森の出身。16~17歳のとき江戸に出て木下順庵に入門。1689年(元禄2)順庵の推挙により対馬国府中藩に仕え,文教をつかさどり,対朝鮮外交に従事。幕府との折衝にも尽力し,朝鮮通信使の待遇問題などでは同門の新井白石と対立した。「交隣提醒」は朝鮮外交の概要を記した名著。朝鮮語研究にも成果をあげ,「芳洲詩集」「橘窓文集」「橘窓茶話」「多波礼草(たわれぐさ)」などの著書もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「雨森芳洲」の解説

雨森芳洲 あめのもり-ほうしゅう

1668-1755 江戸時代前期-中期の儒者。
寛文8年5月17日生まれ。江戸で木下順庵にまなび,その推薦で元禄(げんろく)2年対馬(つしま)(長崎県)府中藩につかえる。朝鮮方佐役として朝鮮との外交にあたった。宝暦5年1月6日死去。88歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は俊良,誠清。字(あざな)は伯陽。通称は東五郎。別号に橘窓。著作に「朝鮮践好沿革志」「橘窓茶話」など。
【格言など】桜に百年の樹少なく,松に千年の緑多し

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旺文社日本史事典 三訂版 「雨森芳洲」の解説

雨森芳洲
あめのもりほうしゅう

1668〜1755
江戸中期の朱子学者
近江(滋賀県)の人。木下順庵の高弟で,中国語・朝鮮語にも通じ,人物温厚で同門の新井白石とは性格的にも学問的にも合わず,朝鮮通信使問題で論争した。対馬藩に仕え,朝鮮との外交にもあたった。著書に『橘窓文集』など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雨森芳洲」の意味・わかりやすい解説

雨森芳洲
あめのもりほうしゅう

[生]寛文8(1668).近江
[没]宝暦5(1755).1.6.
江戸時代中期の朱子学派の儒学者。対馬藩に仕え,朝鮮との外交にあたる。著書『橘窓茶話』 (3巻) 。

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367日誕生日大事典 「雨森芳洲」の解説

雨森芳洲 (あめのもりほうしゅう)

生年月日:1668年5月17日
江戸時代中期の儒学者
1755年没

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世界大百科事典(旧版)内の雨森芳洲の言及

【朝鮮語】より

…その後も文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)を契機として,対馬を中心に朝鮮語研究は積極的に続けられてきた。江戸時代には両国の関係を修復しようとする動きの強まるなかで新井白石,雨森(あめのもり)芳洲らの碩学が,また明治以降には前間恭作,鮎貝房之進,小倉進平金沢庄三郎などの研究者も輩出し,雨森芳洲の編著として知られる《全一道人》《交隣須知》や《日韓両国語同系論》(金沢庄三郎,1910),小倉進平の《朝鮮語学史》(1940)など,多くの成果を残してきた。しかしこれらの研究は一部の学者たちによって進められてきたもので,その影響が一般の朝鮮語学習にも及びはじめるのは,明治も後期を迎えるころからである。…

※「雨森芳洲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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