江戸中期の儒者。名は俊良(しゅんりょう)、東(とう)、誠清(のぶきよ)。通称東五郎、字(あざな)は伯陽(はくよう)。芳洲、尚絅堂(しょうけいどう)、橘窓(きっそう)と号した。寛文(かんぶん)8年5月生まれ。近江(おうみ)国伊香(いか)郡雨森村(滋賀県長浜(ながはま)市)出身。12、13歳ごろ医を志して家業を継ごうとしたが、18歳で江戸に出て幕府儒官の木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門。1689年(元禄2)師順庵の推薦で対馬(つしま)藩儒となり、長崎と釜山(ふざん)に遊学して中国語と朝鮮語を本格的に学び、文教と外交の両面で活躍、ことに朝鮮使節の応接に功績があった。同門の新井白石(あらいはくせき)とはしばしば対立したが敬愛は変わらず、また徂徠(そらい)学派の人々と交流があった。『交隣提醒(こうりんていせい)』『橘窓茶話(さわ)』『たはれぐさ』などを執筆。晩年は和歌にも親しみ、宝暦(ほうれき)5年1月6日、88歳で没した。郷里に芳洲書院がある。
[高橋博巳 2016年4月18日]
『映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社)』▽『中村幸彦著「雨森芳洲とその交友」(『中村幸彦著述集 第11巻』1982・中央公論社・所収)』
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江戸中期の朱子学者。名は俊良または誠清,字は伯陽,通称は東五郎。芳洲,絅尚堂,橘窓と号する。木下順庵の高弟で,その推薦により対馬藩に仕え,この藩の主要政務である朝鮮との応接に活躍,朝鮮語,中国語に通じその声名は内外に高かった。また名分を重んじ,同門の新井白石と将軍王号問題で論争した。著書に《橘窓文集》《たはれ草》その他があり,また朝鮮関係の著に《朝鮮践好沿革志》《雞林聘事録》《交隣提醒》などがある。
執筆者:井上 忠
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1668.5.17~1755.1.6
江戸中期の儒学者。名は東・俊良・誠清(のぶきよ),字は伯陽,通称は東五郎。号は芳洲・尚絅(しょうけい)堂。近江国伊香郡雨森の出身。16~17歳のとき江戸に出て木下順庵に入門。1689年(元禄2)順庵の推挙により対馬国府中藩に仕え,文教をつかさどり,対朝鮮外交に従事。幕府との折衝にも尽力し,朝鮮通信使の待遇問題などでは同門の新井白石と対立した。「交隣提醒」は朝鮮外交の概要を記した名著。朝鮮語研究にも成果をあげ,「芳洲詩集」「橘窓文集」「橘窓茶話」「多波礼草(たわれぐさ)」などの著書もある。
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…その後も文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)を契機として,対馬を中心に朝鮮語研究は積極的に続けられてきた。江戸時代には両国の関係を修復しようとする動きの強まるなかで新井白石,雨森(あめのもり)芳洲らの碩学が,また明治以降には前間恭作,鮎貝房之進,小倉進平,金沢庄三郎などの研究者も輩出し,雨森芳洲の編著として知られる《全一道人》《交隣須知》や《日韓両国語同系論》(金沢庄三郎,1910),小倉進平の《朝鮮語学史》(1940)など,多くの成果を残してきた。しかしこれらの研究は一部の学者たちによって進められてきたもので,その影響が一般の朝鮮語学習にも及びはじめるのは,明治も後期を迎えるころからである。…
※「雨森芳洲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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