水上滝太郎(読み)ミナカミタキタロウ

デジタル大辞泉 「水上滝太郎」の意味・読み・例文・類語

みなかみ‐たきたろう〔‐たきタラウ〕【水上滝太郎】

[1887~1940]小説家評論家。東京の生まれ。本名、阿部章蔵。父の創立した生命保険会社に勤務するかたわら、「三田文学」などに作品を発表。小説「大阪」「大阪の宿」、評論・随筆集「貝殻追放」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「水上滝太郎」の意味・読み・例文・類語

みなかみ‐たきたろう【水上滝太郎】

  1. 小説家、劇作家。本名阿部章蔵。東京出身。慶応義塾大学理財科卒。父の創立した明治生命に入社、専務取締役まで進み、最晩年は大阪毎日新聞社取締役をかねた。学生時代「三田文学」を中心に作品を発表、注目される。以後も実業人として生きるかたわら多くの小説、評論を発表した。著作「山の手の子」「大阪」「大阪の宿」「貝殻追放」など。明治二〇~昭和一五年(一八八七‐一九四〇

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「水上滝太郎」の意味・わかりやすい解説

水上滝太郎
みなかみたきたろう
(1887―1940)

小説家、評論家、劇作家。明治20年12月6日、東京生まれ。本名阿部(あべ)章蔵。筆名敬愛した泉鏡花の小説『風流線』『黒百合(くろゆり)』の主人公からとったもの。慶応義塾大学理財科在学中に、久保田万太郎らを知り、師永井荷風の影響を受ける。1911年(明治44)『三田文学』に小説『山の手の子』を発表して注目され、第一作品集『処女作』(1912)を刊行。12年(明治45)ハーバード大学に留学。卒業後ロンドンへ渡り、16年帰国。父(阿部泰蔵)の創設した明治生命保険相互会社(現明治安田生命保険相互会社)に勤めるかたわら、創作の筆をとり、『海上日記』(1917)、『日曜』(1920)、『大阪』(1923)、『大阪の宿』(1926)、『果樹』(1929)、『倫敦(ロンドン)の宿』(1935)、『遺産』(1936)など多くの作品集を刊行。また「貝殻追放(かいがらついほう)」の題により203編の評論・随筆を残した。25年からは『三田文学』の編集委員となり、「精神的主幹」として後進の育成にも尽力水上の文学は強い道義性と文明批評性に特色をもち、実生活においても多くの敬愛を集めた。昭和15年3月23日没。

[柳沢孝子]

『『水上滝太郎全集』全12巻(1940~41/増補再刊・1983~84・岩波書店)』『今井達夫著『水上滝太郎』新装版(1984・フジ出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「水上滝太郎」の解説

水上 滝太郎
ミナカミ タキタロウ

明治〜昭和期の小説家,評論家,劇作家,実業家 明治生命保険専務。



生年
明治20(1887)年12月6日

没年
昭和15(1940)年3月23日

出生地
東京市麻布区飯倉町(現・東京都港区)

本名
阿部 章蔵(アベ ショウゾウ)

学歴〔年〕
慶応義塾大学部理財科〔明治45年〕卒,ハーバード大学

経歴
慶大在学中の明治43年、永井荷風により「三田文学」が創刊され、44年同誌に処女作「山の手の子」を発表、新進作家として認められる。作品集「処女作」「その春の頃」「心づくし」を出版。大正元年米英仏に留学、5年帰国して父の創立した明治生命保険に勤務。6年から大阪に2年住み「大阪」「大阪の宿」などを発表。14年休刊中の「三田文学」を復刊。7年〜昭和15年「貝殻追放」と題する評論、随筆を書き続け、小説、戯曲も執筆。生涯作家と実業家の二重生活を続け、昭和15年明治生命保険専務に就任。「水上滝太郎全集」(全12巻 岩波書店)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「水上滝太郎」の意味・わかりやすい解説

水上滝太郎 (みなかみたきたろう)
生没年:1887-1940(明治20-昭和15)

小説家,批評家,劇作家。東京生れ。本名阿部章蔵。慶応義塾大学部理財科在学中に,文科教授として新たに迎えられた永井荷風の講義に啓発され,創作欲をたかめる。1911年,荷風が主宰する《三田文学》に発表した処女作《山の手の子》が好評を博し,同じ慶応の文科生だった久保田万太郎とともに三田系の新進作家として認められた。翌年,理財科卒業後,ハーバード大学に留学,ロンドン滞在を経て,16年帰国した。この年,明治生命保険相互会社に入社,以後,没するまで会社員と作家の二重生活をつらぬいた。25年から約10年間,第2次《三田文学》の精神的主幹として後進の育成につとめた功績は大きい。代表作には,第1次大戦末期の大阪風俗を活写した姉妹作《大阪》(1923),《大阪の宿》(1926)があり,20年から6冊刊行された随筆集《貝殻追放》には大正期の健全な市民精神がうかがわれる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水上滝太郎」の意味・わかりやすい解説

水上滝太郎
みなかみたきたろう

[生]1887.12.6. 東京
[没]1940.3.23. 東京
小説家,評論家,劇作家。本名,阿部章蔵。 1912年慶應義塾大学卒業。 10年『スバル (昴) 』に短歌を発表し,『明星』派の歌人として出発したが,永井荷風の主宰する『三田文学』に『山の手の子』 (1911) を書いて小説に転じ,戯曲『嵐』の成功とともに作家として立った。外遊 (12~16) 後明治生命に入社,実業人として同社専務 (40) ,毎日新聞社重役 (39) に進むかたわら,良識ある正義派として『大阪』 (22) ,『大阪の宿』 (25~26) ,『銀座復興』 (31) など写実的手法に基づく文明批評の作風を大成した。第2次『三田文学』創刊 (26) 後は同誌の精神的主幹として重きをなした。随筆評論集に『貝殻追放』 (20~41) がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「水上滝太郎」の意味・わかりやすい解説

水上滝太郎【みなかみたきたろう】

小説家,批評家,劇作家。本名阿部章蔵。東京生れ。父・泰蔵は明治生命保険相互会社の創立者。慶大理財科卒。永井荷風が主宰する《三田文学》に《山の手の子》を発表,久保田万太郎とともに三田派の新進作家として認められた。以後,《大阪の宿》《銀座復興》や随筆《貝殻追放》を書いた。また明治生命に入社,専務となった。実業家と作家の二重生活をしつつ,生涯をリベラリスト,モラリストとして貫いた。全集がある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水上滝太郎」の解説

水上滝太郎 みなかみ-たきたろう

1887-1940 明治-昭和時代前期の小説家,評論家。
明治20年12月6日生まれ。阿部泰蔵の4男。永井荷風に師事し,「三田文学」に「山の手の子」を発表して注目された。代表作に長編「大阪の宿」,随筆・評論集「貝殻追放」など。父創業の明治生命で専務をつとめた。昭和15年3月23日死去。54歳。東京出身。慶大卒。本名は阿部章蔵。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「水上滝太郎」の解説

水上 滝太郎 (みなかみ たきたろう)

生年月日:1887年12月6日
明治時代-昭和時代の小説家;評論家;劇作家
1940年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の水上滝太郎の言及

【三田文学】より

…自然主義の《早稲田文学》に対立して耽美主義の立場をとり,当代の反自然主義陣営の一大拠点となった。荷風の《紅茶の後》《日和下駄》,鷗外の《妄想》《灰燼》,泉鏡花の《三味線堀》などをはじめ,《スバル》《新思潮》系の人々の作品が載り,その中から,久保田万太郎,水上滝太郎,佐藤春夫らの〈三田派〉新人が登場した。1925年3月休刊。…

※「水上滝太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android