久保田万太郎(読み)クボタマンタロウ

デジタル大辞泉 「久保田万太郎」の意味・読み・例文・類語

くぼた‐まんたろう〔‐マンタラウ〕【久保田万太郎】

[1889~1963]小説家劇作家・俳人。東京の生まれ。俳号、暮雨・傘雨。東京の下町を舞台に、市井の人々の生活と情緒を描いた。文化勲章受章。小説「末枯うらがれ」「寂しければ」「春泥」、戯曲「大寺学校」、句集「流寓抄」など。

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精選版 日本国語大辞典 「久保田万太郎」の意味・読み・例文・類語

くぼた‐まんたろう【久保田万太郎】

  1. 小説家、劇作家、俳人。号暮雨、傘雨。東京出身。慶応義塾大学卒。三田派の代表的作家。東京下町に残る情趣を、写実的に描く。日本芸術院会員。文化勲章受章。小説「末枯」「春泥」「市井人」、戯曲「大寺学校」、句集「流寓抄以後」などがある。明治二二~昭和三八年(一八八九‐一九六三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「久保田万太郎」の意味・わかりやすい解説

久保田万太郎
くぼたまんたろう
(1889―1963)

小説家、劇作家、俳人。明治22年11月7日、東京生まれ。生家は浅草で袋物製造販売業を営み、家業を継ぐべき立場にあったが、府立三中(現両国高校)から慶応義塾大学普通部へ転じたころから、文学を志すようになる。慶大在学中に、永井荷風によって創刊されたばかりの『三田文学』に小説『朝顔』(1911)を発表し、また戯曲『Prologue(プロロオグ)』が雑誌『太陽』の懸賞に当選(1911)したことから、三田派の新進作家として認められ、第一作品集『浅草』(1912)を刊行。東京下町に生きる人々の心情を下町ことばの駆使により哀愁を込めて歌い上げるという作風は、処女作以来終生変わることがなかった。1917年(大正6)、初期の代表的小説『末枯(うらがれ)』を書き、19年には大場京と結婚。また、『大寺(おおでら)学校』(1927)などの戯曲や、新派の演出などを手がけて劇壇にも接近した。26年以降東京中央放送局(現在のNHK)に勤め、小説『春泥(しゅんでい)』(1928)、『花冷(はなび)え』(1938)などの佳作や、第一句集『道芝』(1927)を刊行し、また築地(つきじ)座を経て文学座創立に加わり、新派の舞台にも泉鏡花、永井荷風、樋口(ひぐち)一葉作品の脚本を提供するなど、多彩な活動を繰り広げる。35年(昭和10)妻を失い、46年に三田きみと再婚。戦後は日本芸術院会員となり、57年文化勲章を受け、日本演劇界を代表してノルウェーや中国にも赴いた。ほかに小説『市井人』(1949)、『うしろかげ』(1950)などを残す。俳句は学生時代から松根東洋城(まつねとうようじょう)らに学び、本人はつねに余技と称したが、独特な情緒と技巧をもつ秀句も多く、戦後、俳誌春燈(しゅんとう)』を主宰した。昭和38年5月6日没。

[柳沢孝子]

『『久保田万太郎全集』全15巻(1967~68・中央公論社)』『戸板康二著『久保田万太郎』(1967・文芸春秋)』『後藤杜三著『わが久保田万太郎』(1973・青蛙房)』


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20世紀日本人名事典 「久保田万太郎」の解説

久保田 万太郎
クボタ マンタロウ

大正・昭和期の小説家,劇作家,演出家,俳人



生年
明治22(1889)年11月7日

没年
昭和38(1963)年5月6日

出生地
東京市浅草区田原町(現・東京都台東区)

別名
俳号=暮雨,傘雨,甘亭

学歴〔年〕
慶応義塾大学文学部〔大正3年〕卒

主な受賞名〔年〕
菊池寛賞(第4回)〔昭和17年〕,読売文学賞(第8回・小説賞)〔昭和32年〕「三の酉」,文化勲章〔昭和32年〕,NHK放送文化賞〔昭和32年〕

経歴
明治44年小説「朝顔」、戯曲「遊戯」が「三田文学」に発表され、また「太陽」に応募した戯曲「Prologue」が当選し、作家として出発する。45年「浅草」を刊行、以後小説、戯曲、俳句の面で幅広く活躍。大正期の代表作として「末枯」「寂しければ」などがあり、昭和初年代の作品として「大寺学校」「春泥」、10年代の作品として「釣堀にて」「花冷え」、戦後の作品として「市井人」「三の酉」などがあり、「三の酉」で32年に読売文学賞を受賞。昭和7年築地座が結成されて演出も手がけるようになり、12年には岸田国士岩田豊雄らと文学座を結成、死ぬまで幹事を務めた。俳句の面でも、2年「道芝」を刊行、また戦後は雑誌「春燈」を主宰した。17年菊池寛賞を受賞、22年芸術院会員となり、32年には文化勲章を受章、またNHK放送文化賞を受賞したほか、日本演劇協会会長に就任するなど、生涯にわたって幅広く活躍した。

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改訂新版 世界大百科事典 「久保田万太郎」の意味・わかりやすい解説

久保田万太郎 (くぼたまんたろう)
生没年:1889-1963(明治22-昭和38)

小説家,劇作家,俳人,演出家。東京の生れ。慶大在学中の1911年《三田文学》に小説《朝顔》を発表し,《太陽》に戯曲《プロローグ》を懸賞応募して当選,17年に《末枯(うらがれ)》で文壇に認められ,26年には勤めていた母校を辞して放送局に入る。この間に戯曲《雨空》(1920),《短夜》(1925),《大寺学校》を執筆,劇作家として活躍したが,32年に友田恭助・田村秋子夫妻が結成した築地座の演出を引き受け,その解散後37年に岸田国士,岩田豊雄と文学座を創立,他方で新派各劇団のために創作・脚色・演出で活動しつつ,句集《道芝》(1927)をはじめ,俳誌《春灯》(1946年1月~)を大戦後主宰するなど俳句作家としても知られた。代表作品に小説では《春泥》(1928),《花冷え》(1938),《市井人》(1949),戯曲では《釣堀にて》(1935),《萩すゝき》(1942),《あきくさばなし》(1946),脚色の仕事では荷風の《夢の女》,一葉の《十三夜》,潤一郎の《蘆刈》などがある。浅草に育った下町情緒と,会話の間あいや用語に特色があり,代表句〈竹馬やいろはにほへとちりぢりに〉(《道芝》)にみられる哀愁が漂う。
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百科事典マイペディア 「久保田万太郎」の意味・わかりやすい解説

久保田万太郎【くぼたまんたろう】

小説家,劇作家,俳人。俳号暮雨,のち傘雨。東京浅草生れ。慶大文科卒。1911年小説《朝顔》,戯曲《プロロオグ》で認められ,三田派の代表作家となる。下町の生活と情緒を愛し,好んで市井人の生活を描いた。小説に《春泥》《花冷え》《市井人》,戯曲に《大寺学校》などがある。また江戸趣味の俳句をよみ,句集《道芝》がある。演出家としても一家をなし,放送演劇にも尽力した。1957年文化勲章。
→関連項目戌井市郎川口松太郎文学座

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久保田万太郎」の意味・わかりやすい解説

久保田万太郎
くぼたまんたろう

[生]1889.11.7. 東京
[没]1963.5.6. 東京
劇作家,小説家,演出家。慶應義塾大学文科卒業。 1911年小説『朝顔』と戯曲『プロローグ』を『三田文学』と『太陽』に発表して文壇に登場。以来,浅草に住む下町の人々の哀歓を,間 (ま) を生かした会話で描く独特の技法で,『短夜』 (1925) ,『大寺学校』 (27) など多くの戯曲を書いた。ほかに『花冷え』 (38) ,『市井人』 (49) ,『三の酉』 (56) などの小説や句集もある。新劇,新派,歌舞伎の演出と多方面に活躍したが,特に 37年,岸田国士,岩田豊雄らと文学座を結成,指導に力を尽した。日本演劇協会会長。日本芸術院会員。文化勲章受章 (57) 。『久保田万太郎全集』 (15巻,76) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「久保田万太郎」の解説

久保田万太郎 くぼた-まんたろう

1889-1963 大正-昭和時代の小説家,劇作家,俳人。
明治22年11月7日生まれ。「三田文学」から出発。大正6年小説「末枯(うらがれ)」でみとめられる。昭和12年文学座創立に参加。戦後俳句誌「春灯」を主宰。32年文化勲章。下町情緒と市井の人々の哀歓をえがいた。昭和38年5月6日死去。73歳。東京出身。慶大卒。俳号は傘雨。作品に小説「春泥」,戯曲「大寺学校」など。
【格言など】湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(妻の死後によんだ句)

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367日誕生日大事典 「久保田万太郎」の解説

久保田 万太郎 (くぼた まんたろう)

生年月日:1889年11月7日
大正時代;昭和時代の小説家;劇作家;演出家;俳人。日本演劇協会会長
1963年没

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世界大百科事典(旧版)内の久保田万太郎の言及

【歌行灯】より

…2幕9場。久保田万太郎の脚色。1940年4月《日本評論》に発表。…

【大寺学校】より

久保田万太郎の代表的戯曲。4幕。…

【新劇】より

…その上演55演目中,16演目がフランス近代心理劇を主体にする西欧近代戯曲で,39演目が日本の創作戯曲だった。かつて築地小劇場が開場したころ,日本の既成戯曲は当分(2年間),上演しないと宣言した小山内薫に対し,菊池寛,山本有三,岸田国士,久保田万太郎ら,当時,台頭しだした近代的劇作家たちは雑誌《演劇新潮》に拠って,大いに反発を示し,論争を展開した。そして1930年代になると,岸田,久保田を師とする若手劇作家群が劇作専門の雑誌《劇作》に拠って続々と登場し,この《劇作》派の戯曲が築地座で次々と初演された。…

※「久保田万太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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