水呑村(読み)みのみむら

日本歴史地名大系 「水呑村」の解説

水呑村
みのみむら

[現在地名]福山市水呑町・水呑向丘みのみむかいがおか箕島みのしま

山田やまだ村の東方に位置し、東は芦田あしだ川の河口および海。河口に浮ぶ箕島は当村に属した。地名の由来はさまざまに伝えるが、たとえば神功皇后が朝鮮半島出兵の折、箕島で清水を飲んだとか、平重盛が当地の葛城かつらぎ山に登る途中、石淵いしぶちの水を飲んだとか、また水野勝成が樹木飲水の多い箕島に築城を希望したとか、あるいはまた妙性が滝の水を妙顕みようけん寺の泉石および飲料水にしたなど、昔この地でだれかが水を飲んだことに由縁するというのが多い(水呑町史)

当地には縄文時代の洗谷あろうだにはまの両貝塚があり、また箕島にも古墳群などがある。中世には長和ながわ庄の一角を占めていたと考えられる。南北朝時代の初頭には備後地方でも日蓮宗が盛んになっていたことが知られるが(存覚一期記)草戸くさど刀鍛冶と伝える妙性・本性の兄弟が京都に上って日像の弟子となり、延文元年(一三五六)兄妙性が水呑に妙顕寺を、弟本性が野上のがみ妙法みようほう寺を建立したと伝えられる(備陽六郡志ほか)

水呑村
みずのみむら

[現在地名]瑞穂町字水呑

妙楽寺みようらくじ村から北に延びる谷奥にある山間の村。北東稲次いなつぎ(現和知町)との境には三峠みとげ(六六七・八メートル)がそびえ、東西には標高五〇〇メートル近い山々が連なる。北西大簾おおみす(現和知町)へは田辺―京街道の草尾くさお峠で通じる。人家は谷の最奥部やほん谷・松尾まつお谷という小さな谷に点在している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報