長誓山と号し、日蓮宗。本尊は一尊四士、また日蓮像を安置する。身延山
文永八年(一二七一)流罪となり配所の佐渡に向かう途次の日蓮が、時光の妻が難産で苦しんでいたのを法力によって無事に救ったという子安の縁起が伝えられている。同様の縁起は現和光市にある旧末寺の
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京都市上京区にある日蓮宗の大本山。具足山と号し,一般には顕山(けんざん),竜華(りゆうげ),四海唱導の寺と通称される。京都ではじめて日蓮宗を布教して洛陽開山と尊称された日像が,1321年(元亨1)開創。34年(建武1)後醍醐天皇の勅願寺,36年(延元1・建武3)足利将軍家の祈禱所,37年光厳上皇の祈願所に指定され,41年(興国2・暦応4)光厳上皇から四条櫛笥(くしげ)に1町の寺地を賜って移転するなど,建武新政から南北朝内乱に至る政局の激動期に巧みに対処し,公武の間にしだいに寺基を安定させた。他方,町衆社会に多くの信徒を得,また地方に教線を伸ばして諸国末寺を建立し,室町時代,京都最大の日蓮宗寺院に発展した。だが,それだけに叡山の迫害も激しく,堂舎を破却されたり,1393年(明徳4)には寺号を妙本寺と改称させられたりした(永正・大永(1504-28)ころ妙顕寺の旧号に復する)。妙覚・立本(りゆうほん)・本能・妙蓮・本隆の京都日蓮宗(法華宗)の諸大寺は当寺から室町時代に分出したものである。1583年(天正11)豊臣秀吉の命で二条西洞院の旧地から現寺地に移った。江戸時代には諸国末寺約400,寺運大いに栄えた。現在の堂宇は1788年(天明8)の大火以後再建されたもの。寺宝には後小松天皇宸翰,日蓮真跡の神国王書と強仁状御返事(以上,重要文化財)などがあり,そのほか伝蔵の多くの古文書は竜華秘書(りゆうげひしよ)と呼ばれて名高い。なお寺域内に尾形光琳・乾山(けんざん)兄弟,その父宗謙の墓がある。
執筆者:藤井 学
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京都市上京(かみぎょう)区妙顕寺前町にある日蓮(にちれん)宗の大本山。具足山(ぐそくざん)と号し、またの名を竜華(りゅうげ)という。本尊は日蓮奠定(てんてい)の木像の曼荼羅(まんだら)本尊。1321年(元亨1)日像(にちぞう)が後醍醐(ごだいご)天皇より今小路(いまこうじ)に寺地を賜り創建した。1334年(建武1)には、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受け、日蓮宗最初の勅願寺となった。1341年(興国2・暦応4)光厳(こうごん)院院宣により四条櫛笥西頬(しじょうくしげにしつら)(現中京(なかぎょう)区)に移転。それ以後、当寺を四条門流という。室町時代には公武政権と密接なつながりをもつが、天文法華の乱(1536)で延暦(えんりゃく)寺衆徒(しゅと)の襲撃を受け、また織田・豊臣(とよとみ)氏の弾圧にあう。現在の建物は江戸時代に再建された。寺宝には後小松(ごこまつ)天皇宸筆(しんぴつ)御消息(2幅)、日蓮筆の強仁状御返事、神国王書(2巻)、金字法華(ほけ)経巻5(いずれも国重要文化財)がある。そのほか、日蓮自筆の玄旨伝法本尊、12巻の御書などを有する。寺域に尾形光琳(こうりん)・乾山(けんざん)兄弟の墓がある。
[田村晃祐]
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※「妙顕寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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