水落村(読み)みずおちむら

日本歴史地名大系 「水落村」の解説

水落村
みずおちむら

[現在地名]鯖江市水落町・水落町一―四丁目・神明しんめい町一―二丁目・北野きたの町一丁目・さいわい町一丁目・長泉寺ちようせんじ町二丁目

長泉寺山の北方に位置し、集落北陸街道に沿う。西は日野川、東は上河端かみこうばた村・下河端村、南は小黒町こぐろまち村、北は北野村に接する。地名は文明一四年(一四八二)八月八日の祝職安堵状(瓜生家蔵)に「水落祝赤法師」とみえ、その後も同家蔵文書に頻出する。永正一五年(一五一八)正月二九日の小島景増書状に「正月十七日於御神明をこないの事、町衆迷惑に付云々」とか、年不詳一二月二九日の朝倉光玖書状に「水落町未篠を不取之由申候云々」とあるように、すでに町場を形成していた。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今北東郡山本やまもと(高二七一二・七七石)に含まれ、石高からみて当村のほか北野村・小黒町村も含まれると考えられる。

水落村
みずおちむら

[現在地名]富山市水落など

神通川と常願寺川に挟まれた平地中央、常願寺川の伏流水が湧出する扇状地扇端部で、村名も豊富な水に由来すると伝える。東は楠木くすのき村など。戦国期、上杉謙信越中から飛騨を攻めようとして高原たかはら(現立山町)に布陣した頃、水落は村里防備を施した「邑郭」であったと伝える(肯泉達録)。元和二年(一六一六)二石余(物成二ツ)、同三年八石余(物成二ツ)の新開分について記した同年の水落村新開検地打渡状(阿波加家文書)が残る。正保郷帳では高五〇二石余、田方三三町三反余・畑方二反、新田高三二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五五六石、免五ツ三歩(三箇国高物成帳)。天保九年(一八三八)の一五石など数回の手上高により、同一一年の打銀高五八七石余、免五ツ三歩(「高免帳」杉木家文書)

水落村
みずおちむら

[現在地名]安佐北区可部かべ町〈じよう中野なかの下町屋しもまちや

まる山が北・西をさえぎり、東・南が開ける。北は九品寺くほんじ村と下町屋村、南は上下の両中野村である。根谷ねのたに川が村の東寄りを南流。その東岸は字東原ひがしばらで、高松たかまつ山麓の下町屋村東原と境を接する。下町屋村で石見浜田路と雲石路に分れる街道が根谷川に沿って通る。中世には可部庄に含まれていたと考えられる。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には「水おち村」二三六石一升とみえ、この村高は「芸藩通志」まで引継がれる。

水落村
みずおちむら

[現在地名]小矢部市水落

石名田いしなだ村・道明どうみよう村の南、小矢部川右岸の低平地に立地。排水河川の黒石くろいし川と乱場らんば川が地内で合流。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一〇、道明村組に属する。正保郷帳では高四六三石余、田方三〇町七反余・畑方一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四七二石・免三ツ六歩、小物成は野役一〇匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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