江戸後期の沼津藩主、老中。旗本岡野肥前守知暁(ひぜんのかみともあき)の二男で、初め旗本水野忠隣(ただちか)の養子となる。小納戸(こなんど)、小姓(こしょう)を経て西丸(にしのまる)に勤仕、1785年(天明5)従(じゅ)五位下(げ)大和守(やまとのかみ)。86年西丸の徳川家斉(いえなり)(翌年11代将軍)が本丸に移るのに従う。同年12月、水野忠友(ただとも)の養子で離縁となった忠徳(ただのり)(田沼意次(おきつぐ)の二男意正(おきまさ))にかわって忠友の養子となる。家督相続後は奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行(ぶぎょう)加役、若年寄、西丸側用人(そばようにん)等々の役職を歴任して、1817年(文化14)老中格と出世コースを歩んでいた。老中松平信明(のぶあきら)(小伊豆(こいず))が没し、勝手掛牧野忠精(ただきよ)が病気辞職すると、18年(文政1)2月勝手掛、同年8月老中首座となり、将軍家斉の信任を得て17年間も幕政の責にあたった。もっとも主要な事業は、金座役人後藤三右衛門(さんえもん)の協力を得て実施した貨幣改鋳で、その益金は60万0700両(『鋳貨図録』)もあったという。
その政治手腕にかかわって「水の出てもとの田沼となりにけり」などという付句(つけく)や『甲子夜話(かっしやわ)』にみられるような田沼批判に劣らない厳しい批判があった。しかし一方、忠成没後まもなく家臣によって書かれたという『公徳弁』によれば、忠成にはそれなりの見識があったことが知られ、両者をあわせて忠成は論ぜらるべきであろう。藩にあっては、公用人土方有経(ひじかたありつね)を片腕として田沼時代の再来との評もある施策を展開した。なお忠成は1821年、29年に1万石ずつ二度にわたって加増され、沼津藩は5万石となった。
[若林淳之]
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(藤田覚)
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1762.12.1~1834.2.28
江戸後期の老中。駿河国沼津藩主。父は旗本岡野知暁。旗本水野氏の養子をへて沼津藩主水野忠友の婿養子。出羽守。小姓時代から11代将軍徳川家斉(いえなり)の信任を得,寺社奉行・若年寄をへて,1812年(文化9)西丸側用人となる。17年本丸老中格,18年(文政元)勝手掛となり財政を主管し,34年(天保5)没するまで幕政を主導。8度に及ぶ貨幣改鋳,治安対策の文政改革,異国船打払令,婚姻を利用した大名融和策などの施策を行った。賄賂政治との悪評もあった。
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…駿河国(静岡県)駿東郡沼津に藩庁を置いた譜代中藩。1601年(慶長6)大久保忠佐が三枚橋城に入って立藩(2万石)したが1613年死去し,嗣子がなかったため除封,城も翌年破却。1777年(安永6)将軍徳川家治の側用人水野忠友が駿河駿東郡1万4000石,三河大浜6000石の2万石を与えられ,沼津築城を命ぜられ,水野沼津藩が成立した。2代忠成(ただあきら)は将軍家斉の信任を得て筆頭老中に昇任し化政期の幕政を掌握,領地も加増を重ね5万石に達した。…
…また幕府政治のうえからも,その前後の寛政,天保の両改革期と違って改革的要素が少なく,無気力かつ腐敗した時期とされた。文化期にはまだ松平定信の親任した老中が政治をとり,改革の綱紀が残存していたが,文政期になると老中首座を務めた水野忠成(ただあきら)は収賄の権化といわれ,〈びやぼん(当時流行の笛)を吹けば出羽(いでは)(忠成は出羽守)どんどんと金が物いふいまの世の中〉とうたわれ,これはかなり誇張があったようではあるが,武士や役人の道徳意識が変化し,理想化された武士像とのギャップを民衆から批判されたことを物語っている。将軍家斉は生涯を通じて40人の側妾(そくしよう)を持ち,このうち17人の腹から55人の子が生まれたが,これは家斉の大奥生活がどんなに長かったかを物語るものであり,豪奢(ごうしや)な生活内容を示唆してあまりある。…
※「水野忠成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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