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異国船打払令 いこくせんうちはらいれい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

異国船打払令
いこくせんうちはらいれい

文政8 (1825) 年2月に出された法令。文政年間 (1818~30) に出されたことから「文政の打払令」ともいう。江戸時代も後期になると,外国船が日本近海に出没することが多く,特に寛政年間 (1789~1801) 以降はロシアやイギリスの軍艦が通商を求め,アメリカの捕鯨船などが寄港地を求めて日本に立寄るという具合で,幕府もその対策に苦慮していた。さらに文政1 (18) 年,イギリス人 G.ゴルドンが直接浦賀に来航して貿易を要求して幕府の拒絶にあい,また,同7年イギリス捕鯨船の船員が常陸に上陸して薪水を求めたところ,水戸藩の藩兵に捕えられ,さらに同年薩摩藩では,上陸して略奪したイギリス船の船員が射殺されるという事件も起った。そこで幕府は,同8年7月,「有無に及ばず一図に打払い」という異国船打払令を出し,日本に上陸した外国人の逮捕,もしくは射殺を命じた。この令が出されてのち,天保8 (37) 年,アメリカ船『モリソン』号が漂流日本人の返還と通商要求をもって浦賀に入港しようとしたところ,砲撃を受けてやむなく鹿児島に向い,そこでも薩摩藩兵によって砲撃を受け,ついにマカオに帰った。幕府は長崎オランダ商館長の報告によって,『モリソン』号渡来の事情を評議したが,このときは打払令を廃止することにはならなかった (→モリソン号事件 ) 。やがて中国におけるアヘン戦争の情報が届き,ついに幕府の危機意識は高まり,水野忠邦らが打払令について評議した結果,老中真田幸貫の意見をいれて,同 13年に廃止してもとの薪水供給令に戻った。打払令は不徹底のまま絶えず幕府内においても存続が問題とされたが,結局,幕府の国防政策の貧弱さを内外に知らしめるだけに終った。

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デジタル大辞泉の解説

いこくせんうちはらい‐れい〔イコクセンうちはらひ‐〕【異国船打払令】

江戸幕府が文政8年(1825)に出した外国船追放令。ロシア・イギリス船の来航の増加に対し、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じた。天保13年(1842)廃止。無二念(むにねん)打払令。

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百科事典マイペディアの解説

異国船打払令【いこくせんうちはらいれい】

1825年江戸幕府が発した外国船取扱令で,日本の沿岸に近づく外国船に対し,無差別に砲撃を加えて撃退することを命じた。無二念打払令とも。19世紀以降,フェートン号事件など,英国,ロシアなどの外国船の来航が増加したのに対する海防策として出されたもの。
→関連項目新論蛮社の獄

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世界大百科事典 第2版の解説

いこくせんうちはらいれい【異国船打払令】

1825年(文政8)に発令された外国船取扱令で,日本の沿岸に近づく外国船に対し,無差別に砲撃を加えて撃退することを命じたもの。文政打払令,無二念打払令ともいう。幕府は,1806年(文化3)漂流船には薪水を給与すると同時に,江戸湾ならびに全国の沿岸の警備を強化することを諸大名に命じたが,19世紀初め北太平洋で操業する英米の捕鯨船が日本近海を航行し,水,食料を求めて頻繁に沿岸に渡来したため,諸藩は沿岸警備に苦しんだ。

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大辞林 第三版の解説

いこくせんうちはらいれい【異国船打払令】

1825年江戸幕府が出した外国船追放令。外国船は見つけ次第打ち払い、上陸しようとする外国人は逮捕または打ち殺すことを命じた。42年廃止。文政の打払令。無二念打払令。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

異国船打払令
いこくせんうちはらいれい

1825年(文政8)2月、江戸幕府が清(しん)とオランダ以外の外国船をすべて撃退することを諸大名に命じた法令。その文言のなかに「異国船乗寄(のりより)候を見受候はば、其(その)所に有合(ありあわせ)候人夫を以(もっ)て有無に及ばず一図に打払、……無二念(にねんなく)打払を心掛(こころがけ)」(御触書(おふれがき)天保集成)とあることから、無二念(むにねん)打払令ともよばれている。18世紀の末ごろまで、幕府は通商を禁じた外国船が漂着した場合には薪水(しんすい)を与えて帰帆させる方針であったが、1808年(文化5)のフェートン号事件以来、イギリス船に対する警戒を強めた。加えて、イギリスとアメリカの捕鯨船が日本の近海に頻繁に出没し始め、1824年には常陸(ひたち)(茨城県)、薩摩(さつま)(鹿児島県)などで上陸するという事態も起こった。鎖国体制をあくまでも維持しようとする幕府は、この法を諸大名に向けて発し、近代的通商に向かって進展する世界の情勢に背を向け、諸国の要求を力づくで排除しようとした。1837年(天保8)6月にアメリカ船モリソン号が浦賀に入港した際に砲撃を加えた事件はこの法に拠(よ)ったものであり、さらにこのような幕府の対応を批判した渡辺崋山(かざん)、高野長英(ちょうえい)を捕らえる(蛮社の獄(ばんしゃのごく))など内外ともに強圧的な政策がとられた。しかし、1842年(天保13)にアヘン戦争で清がイギリスに敗れて開国を強制させられたことが伝わると、あわててこの法を中止し、薪水食料の給与を許可したものの、依然として鎖国体制を維持し続けようとした。[奈倉哲三]

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世界大百科事典内の異国船打払令の言及

【フェートン号事件】より

…事件の責任を負って長崎奉行松平康英は切腹し,佐賀藩主も塞(ひつそく)の処分をうけた。蝦夷地でのロシアとの紛争のさ中に起こったこの事件に驚いた幕府は,江戸湾防備に着手し,イギリスへの警戒心を強め,のちの薩摩宝島事件とともに異国船打払令発布の一因となった。【藤田 覚】。…

【モリソン号事件】より

…広東のアメリカ貿易商社オリファント社所属のモリソンMorrison号が1837年(天保8)日本人漂流民7人の送還を兼ねて対日貿易の開始を求めて浦賀へ来航し,異国船打払令に従った浦賀奉行の砲撃をうけ,さらに鹿児島湾に入港しようとして砲撃された事件。翌年,事件の真相をオランダ商館長の情報から知った幕府は,打払政策に関する評議を行ったが,幕府評定所一座が打払令順守を主張したことを知った渡辺崋山らは,幕府の危険な政策を批判し,蛮社の獄の原因の一つとなるとともに,対外的危機を認識させる事件となった。…

※「異国船打払令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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