日本歴史地名大系 「永安寺」の解説 永安寺えいあんじ 滋賀県:神崎郡永源寺町高野村永安寺[現在地名]永源寺町高野明神(みようじん)山南麓、高野(たかの)神社西方にある。瑞雲山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は地蔵菩薩。〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉〔永源寺四派の首位〕永源寺四派の一つ。嘉慶元年(一三八七)永源寺二世弥天永釈を開山として創建され、永源寺四派のうちで最も力をもった。永釈の著した「寂室和尚行状」は師元光の根本史料。康応元年(一三八九)一二月三日には将軍足利義満から当寺敷地・田畠などが寄進された(明徳元年六月六日「斯波義将奉書」永源寺文書)。ただし具体的な寄進地は不明。応永一八年(一四一一)多宝塔建立のため比丘永鏡から二反半の私領田地が仏供料として寄進され(同年三月五日「永鏡寄進状」吉田文書)、同二〇年松嶺道秀を導師に多宝塔落慶供養が行われた(「多宝塔供養文」永安寺文書)。 永安寺えいあんじ 静岡県:磐田郡豊岡村敷地村永安寺[現在地名]豊岡村敷地臨済宗妙心寺派の古刹。山号竜寿山。本尊は釈迦如来。貞治年間(一三六二―六八)に円応寂室が開創、二代弥天永釈が堂宇伽藍を拡張、寺観を整えたという(天保九年「歴代住持書上」寺蔵文書、「敷地村誌」)。応永五年(一三九八)二月二七日の足利義満御判御教書(尊経閣古文書纂)によると当寺は野部(のべ)郷内山香(やまか)の田畠・在家などを安堵されている。永禄四年(一五六一)今川氏真により同郷永安寺の末寺八ヵ寺が安堵されており(同年三月六日「今川氏真朱印状」寺蔵文書)、同一二年には臨済(りんざい)寺(現静岡市)領として当寺が書上げられている(同年正月一八日「臨済寺領・天沢寺領等書立土代」臨済寺文書)。 永安寺えいあんじ 愛知県:名古屋市東区東門前町永安寺[現在地名]東区東桜二丁目東門前(ひがしもんぜん)町から禅寺(ぜんでら)町筋を南へ入った東側にあり、泰崇山と号し、曹洞宗正眼(しようげん)寺(現小牧市)の末寺であった。本尊は聖観世音菩薩。脇侍は不動明王・地蔵菩薩。初めは海東(かいとう)郡木田(きだ)村(現海部郡美和町)にあったというが開基は不詳。戦国の末、木下利直が清須(きよす)城(現西春日井郡清洲町)の西に移し、正眼寺の久山賢悦を中興の開山とした。 永安寺えいあんじ 宮城県:泉市福岡村永安寺[現在地名]泉市福岡 照岡臨済宗妙心寺派、乾徳山と号し、本尊釈迦如来。松島瑞巌寺の雲居が明暦三年(一六五七)に開山、開基は二代藩主忠宗。慶安三年(一六五〇)茂庭(もにわ)村綱木(つなき)(現仙台市)に大梅(たいばい)寺を建てて雲居の隠居所とした忠宗が、明暦二年冬、古内主膳を供に狩をした際、当地を雲居の座禅の地としてふさわしい場所と認め、当寺を建立したという。その際寺領を与えようとしたが雲居は固辞、寛文元年(一六六一)になって四代藩主綱村が五貫文を寄付した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by