江川町(読み)えがわちよう

日本歴史地名大系 「江川町」の解説

江川町
えがわちよう

[現在地名]西区江川町・花の木はなのき一丁目・城西じようさい二丁目

城郭巾下はばした門外大幸だいこう橋から西へ、樽屋たるや町大木戸までの東西道筋。さらにその先美濃路へと続く巾下筋(尾張志)あるいは江川町筋(府城志)にあり、蛯屋えびや町角と江戸屋えどや筋との間をいう。もとこの辺りに鷹匠が住んだので鷹匠たかじよう町と称した(尾張名陽図会、名府予録)清須きよす越しかどうかは不明。承応二年(一六五三)江川町になる。道筋を南北に横断する形で江川が流れていたのによる(尾張城南陌名由緒)

江川町
えがわちよう

[現在地名]静岡市紺屋町こうやまち呉服町ごふくちよう二丁目・常磐町ときわちよう一丁目・両替町りようがえちよう二丁目・御幸町みゆきちよう

駿府城の南西に位置し、城下横筋(横町)第二行東端の両側町。北側の町裏に駿府町奉行の下屋敷がある。東海道は縦筋(縦町)第二行の呉服町六丁目の南端で東に折れて当町に入り、南に折れて新谷しんがい町に続く(以上、町方絵図)。町名の由来は、天正年中(一五七三―九二)韮山代官江川氏の先祖が住んでいたとする説のほか(「駿河記」など)、江川酒を売る者が居住したなどの説がある。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家一・本家三七・借家二〇。

江川町
えがわまち

[現在地名]唐津市江川町

組屋敷の町といい、唐津城下そう(内町・外町)のうち江川町だけが城下西方に孤立して作られ、当初は下級武士の居住地であった。慶長絵図に町名は記されず、大久保氏時代以後できた町と思われる。幕末頃の商家に酒井屋藤生家・米屋山岡家があり、唐津神祭絵図(市指定文化財)を描いた富野棋園も晩年住んだ。廃絶した英彦山ひこさん山伏の寺(浜田院)が現在の稲荷社の裏辺りにあった。

文化年中記録に「一、古来本軒六十八軒、東西三丁三十五間、当時家数人数二百六十三人、内町年寄二人、組頭二人、酒屋一軒、紺屋一軒、質屋一軒、山伏浜田院、山伏明善院」とある。

唐津神社神幸曳山のうち江川町の「七宝丸」は最も新しく、明治九年(一八七六)製作とされ、同年製作された水主かこ町の「鯱」と、奉納のあとさきについて紛争が起きた。

江川町
えがわちよう

[現在地名]千代田区東神田ひがしかんだ一丁目

豊島としま町の南に位置する町で、藍染あいぞめ川に沿った片側町。西も同町、東は橋本はしもと町三丁目、南は同一丁目および同二丁目。当地は江戸時代前期からの武家地で、明暦三年(一六五七)新添江戸之図では小田出雲とみえる。寛文新板江戸絵図でも同家の拝領屋敷。延宝年間(一六七三―八一)には酒井壱岐守、元禄年間(一六八八―一七〇四)には伊勢平八郎の拝領屋敷で、宝永年間(一七〇四―一一)に当町が成立している(沿革図書)

江川町
えがわちよう

[現在地名]堺市南旅篭みなみはたご西にし三丁

小農人このうにん町の西にあり、栴檀木せんだんぎ筋ともよばれた(申唱之町名「堺市史」所収)。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「江川町」とあり、大道の西六筋目を挟む両側町で東頬一六筆・西頬一五筆、町会所は西頬にある。

江川町
えがわちよう

[現在地名]兵庫区兵庫町一丁目

みなと町の南、山陽道に面する岡方の町で、地方一八町の一。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に町名がみえ、屋敷地一九筆。元禄九年(一六九六)の兵庫津絵図井家蔵)には町の西に文珠堂が描かれる。

江川町
えがわまち

[現在地名]福江市江川町

福江城の北西、福江川河口部右岸にある。江戸時代は町人町で、町名は福江川つまり江川に由来する。文化一〇年(一八一三)六月伊能忠敬の一行は江川橋手前などを測量(伊能忠敬測量日記)。弘化二年(一八四五)五島家の清姫艶姫が江川町に行き、戸楽とらく種痘、四ヵ社で祈祷を行った(五島編年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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