江戸中期,幕府が享保改革の際発布した流地禁止令を盾にとって田畑の取戻しを要求して起こった騒動。1722年(享保7)幕府が出した流地禁止令は,これまで認めてきた田畑の質流れを,質入れは認めつつ以後禁止し,小作年貢も低く抑えるなど,質入人に有利に解釈できる要素をもっていた。このため出羽国村山郡の幕領長瀞村(現,東根市)の名主らは,この法令を村民に通達しなかった。だが23年これを知った村民多数は名主に質地の取戻しと利息超過分の返済を迫り,質地証文を奪取した。しかし,幕府の命により出動した山形藩兵の手で鎮圧された。一方,同年越後国頸城郡の幕領の村々でも,質入農民が法令を有利に解釈して金主らに質地の取戻しを求める運動を起こした。代官所の説得が不十分だったため,翌年春には質地奪還の実力行使に発展し,紛争は長期化した。そこで幕府はこれらの村を高田藩預所などにして鎮圧を命じ,紛争を解決させた。この間,あらたな混乱を恐れた幕府はこの法令を撤回した。
執筆者:青木 美智男
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田畑の質地証文を質地小作人たちが暴力によって金主から奪還する百姓一揆(いっき)の一形態。この騒動の典型としては、1721年(享保6)12月(一説に翌年4月)公布の質流地(しちながれち)禁止令に誘引されて22年10月に起こった越後(えちご)(新潟県)頸城(くびき)郡一帯の天領150か村の暴動、23年2月の羽前(うぜん)村山郡の天領長瀞(ながとろ)村(山形県東根(ひがしね)市)の騒動がある。ともに村役人がこの法令の伝達を握りつぶし、農民たちも質地を取り戻せる徳政令と理解したことに端を発する。長瀞村では質地関係が深く進行し、債権者46人、債務者300余人を数え、証文数は320通、金額は3980両に上った。この状況下で、債務のいっさいを公権力が免除する徳政令が発動されているとの噂(うわさ)が流れ、農民たちは連判状に結集、訴願から実力行使に発展した。越後の騒動も長期化したが、幕府は当地を高田藩などの預地として藩兵の力で鎮圧した。この混乱のなかで、幕府は23年8月この法令を撤回したが、一揆加担の農民も多数が断罪された。
[長倉 保]
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1722年(享保7)に幕府が公布した質流地禁止令をきっかけにおきた騒動。同年,越後国頸城(くびき)郡幕領では百姓が質地取戻しを地主に要求(越後質地騒動・頸城質地騒動)し,翌年出羽国村山郡幕領長瀞(ながとろ)村では,この法令を利用して百姓が質地証文などを奪いとる事件(長瀞質地騒動)がおきた。頸城地方では流地となった田地の耕作や地主に質地返還を要求する事件が各地で発生。幕府評定所に地主・質入人双方が出訴したが,質入人側の敗訴となった。長瀞村では,380人余が「一身(味)神水」し,金主46人から320通の証文類を奪うなどした。23年8月,幕府は法令を撤回したが,24年春,頸城地方で騒動が再燃したため,当地方33万石余を高田藩など5藩に預けた。長瀞質地騒動では磔2人・獄門4人・死罪2人・遠島9人など,越後質地騒動では磔7人・獄門11人・死罪12人などのきびしい処分が下された。法令の撤回は質地小作化をいっそう進行させた。
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