岡本郷(読み)おかもとごう

日本歴史地名大系 「岡本郷」の解説

岡本郷
おかもとごう

岡本付近に比定され、浜名神戸のうちにあった。鎌倉後期頃とみられる実阿申状案(大福寺文書)によると、「岡本郷」の先刀禰であった実阿は自らが大福だいふく寺に寄進した畠地の安堵を求めている。元徳三年(一三三一)二月八日、顕道が買得した「浜名神戸岡本郷内字広田」の田地一段を僧良範が顕道の遺言どおりに大福寺に寄進した(「良範寄進状」同文書)。当地は大福寺との関係が深く、永享九年(一四三七)一〇月八日に浜名持政は大福寺に対し、当郷から十二神寄進米一斗二升を請取るよう伝えている(「浜名持政奉書」同文書)


岡本郷
おかもとごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠いているが、相模国高座たかくら郡・近江国浅井あさい郡の同名の郷には「乎加毛止」の訓がある。「続日本紀」養老元年(七一七)九月七日条に河内忌寸は居住地によって氏を命名するのが慣例であるからとして、台氏から岡本氏へと改姓された台忌寸少麻呂の記事がみえるが、この岡本は岡本郷の地と推定されている。しかし岡本の遺存地名がなく、郷の所在について「日本地理志料」は現枚方ひらかた市の養父やぶ招提しようだい付近とし、「大日本地名辞書」は同市のおか三矢みつや地区に比定しているが、いずれも根拠が示されず明らかでない。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠く。相模国高座たかくら郡・近江国浅井あざい郡などの同名郷の訓注「乎加毛止」に従う。郷域については、現羽咋郡北部の海岸段丘上、富来とぎ笹波ささなみ付近とする説(能登志徴)、同郡中央部の於古おこ川流域とする説(日本地理志料)、現志雄しお町中心部付近とする説(加能郷土辞彙)などがあったが、説得力に欠けていた。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」は諸本とも「乎加毛止」(オカモト)と訓ずる。郷名表記は「天台座主記」良源の項に「近江国浅井郡岳本郷」とあり、あるいは岳本郷と書くことがあったかもしれない。郷名の初出は平城宮跡出土木簡で、「(表)近江国浅井郡岡本郷」「(裏)木部女□庸」とある。また「拾遺往生伝」には「鹿菅太、失其名、江州浅井郡岡本郷住人也」とみえる。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「和名抄」高座たかくら郡岡本には「乎加毛度」(高山寺本)、「乎加毛止」(東急本)と訓を付す。天平七年(七三五)閏一一月一〇日の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)によると、舎人親王の食封三〇〇戸のうちに、岡本郷五〇戸、田一二三町二三六歩とある。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」所載の郷。訓は東急本に「乎加毛止」とする。故地について「三州志」は、当郷を「若くは山本か」とし、近世における長沢ながさわ郷の山本やまもと(現富山市・小杉町)にあてるが、諸本の指摘するように村名などに岡本の地名が見当らず、現在のところ比定は困難である。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」東急本は「乎加毛土」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」高山寺本は「乎加毛止」、東急本は「乎加」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。


岡本郷
おかもとごう

「和名抄」高山寺本は「乎加毛度」、東急本は「乎加毛止」と訓を付す。「風土記稿」は高座郡にこの地名はないとして、高座郡より一里ほど離れた鎌倉郡岡本村をあてる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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