中国の政治家。安徽(あんき)省宿(しゅく)県(現、宿州市)の貧困家庭に生まれた。1975年8月に中国共産党に入党。1979年には中央党校理論宣伝幹部班に抜擢(ばってき)された。1980年宿県に戻り、1982年から共産主義青年団(共青団)安徽省委員会宣伝部長に、1983年には共青団省委員会副書記に抜擢された。1992年から1999年までは安徽省の指導者として党委副書記をはじめ要職についた。1993年に最年少で副省長就任。1999年に中央に抜擢され、国家発展計画委員会副主任、2003年3月、温家宝(おんかほう)内閣のもとで国務院副秘書長となり国務院弁公庁の日常業務を担当。また国務院三峡(さんきょう)工程建設委員会委員などを兼任。2005年重慶(じゅうけい)市党委書記、2007年12月からは広東(カントン)省党委書記に就任し、中央政治局員にもなった。
これらの目覚ましい昇進は、安徽省での共青団の活動を高く評価した胡錦濤(こきんとう)の抜擢とみられていた。しかし、その後の活動をみれば汪洋は派閥性の強い人物のようにはみえない。2008年11月、リーマン・ショックによる世界的な景気後退を受けて、衰退産業を省外に出して質の高い成長への路線転換を行う「騰籠換鳥(とうろうかんちょう)」を提起した。中小企業の切捨てや失業者対策の事実上の軽視から首相温家宝と対立。2009年7月、国内総生産(GDP)成長率を8%死守(「保八」)の温家宝路線に対し、「GDPの数値はあまり重視していない」「不景気なときに成長が鈍るのは当然」と発言し、構造改革や産業の淘汰(とうた)を強調した。これらは広東モデルとよばれ、やがて汪洋の評価につながった。2012年の第18回党大会で党中央政治局委員になり、2013年春に国務院副総理となった。一見、国務院総理李克強(りこくきょう)の右腕として貢献していたかにみえたが、2017年の第19回党大会で共青団系の中央指導者が次々と失脚ないし影響力削減にあうなかで、汪洋の地位は上昇し政治局常務委員に選出され、2018年3月には政治協商会議主席に指名された。一説には、上海(シャンハイ)派創設の中心メンバーである汪道涵(おうどうかん)(1915―2005)の甥(おい)として紹介している報道もある。
[天児 慧 2018年4月18日]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新