沢尻村(読み)さわじりむら

日本歴史地名大系 「沢尻村」の解説

沢尻村
さわじりむら

[現在地名]大館市十二所じゆうにしよ 沢尻

米代川南流域に位置する。盛岡藩領土深井どぶかい(現鹿角市)と土深井川を挟んで隣接する(六郡郡邑記)。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四八石とある。長期にわたる境界争いは、延宝五年(一六七七)になって決着した(六郡郡邑記)。享保一五年(一七三〇)戸数は二〇軒(十二所郷土読本)、以降の村勢は寛政一二年(一八〇〇)三〇戸、一六五人、安政四年(一八五七)三〇戸、一三〇人、同七年三一戸、一九一人(大館市史)。寛政六年の六郡惣高村附帳では蔵分当高八〇石余。

米代川沿いに盛岡藩領鹿角かづの郡と結ばれる脇街道が走り、天和二年(一六八二)の駄賃増銭札之草案では、十二所まで本駄賃二一文、無荷一四文、南部領松山まつやま(現鹿角市)までは本駄賃三〇文、無荷二二文。


沢尻村
さわじりむら

[現在地名]旭町杉本すぎもと

矢作川の支流白石しろいし川の水源に位置し、東は九沢くざわ村・大垣内おおがいと村、南は月畑つきばた村・万根まんね村、西は大坪おおつぼ村、北は白石村に接する。集落は小起伏面上の山麓点在。現県道笹戸―稲武線が中央を東西に通る。縄文時代早期・晩期大水口岩陰おおみずくちいわかげ遺跡が山腹山林中の岩陰にある。寛永一二年(一六三五)当時、幕府直轄地。


沢尻村
さわじりむら

観応三年(一三五二)四月一三日の吉良貞家吹挙状案(板橋文書)によれば、「陸奥石川庄内千石・板橋八幡宮神領下河辺村沢尻等」は、川辺かわべ八幡宮(現玉川村)神主の石川板橋掃部介高光の「重代相伝之所」と認められている。同年八月三日の足利尊氏袖判吉良貞家奉書(川辺八幡神社文書)では、「石河庄内下千石村・板橋村并八幡宮神領下河辺村・急当・沢尻村等」の高光による領有が認められた。至徳元年(一三八四)六月一五日の修理大夫某判物案(同文書)では「石河庄八幡宮神領河辺村・急当村・沢尻村」などが石河板橋左京亮に安堵されている。


沢尻村
さわじりむら

[現在地名]鹿角市十和田錦木とわだにしきぎ 沢尻

米代川と大湯おおゆ川の合流点東側に位置し、室田むろた村に接する。毛馬内けまない花輪はなわを貫く街道が集落西側を通る。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高二五石五斗はすべて蔵分、民戸七軒、馬六〇匹。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳も高二五石五斗余。


沢尻村
さわじりむら

[現在地名]旭村沢尻

鹿島灘沿岸の台地上にあり、南は荒地あらじ村。江戸初期まで上釜かみがま村の内にあったといわれるが、元禄期(一六八八―一七〇四)までには独立し、元禄郷帳に村高一〇五石余と記される。江戸中期頃、鰯漁が盛んとなり、幕府から鰯運上が課されたが、その後鰯漁が衰微したため、天明六年(一七八六)には鰯運上の減免を幕府へ願いでた(「玉田・荒地・沢尻・上釜四か村鰯漁減免定納請状」石崎家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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