河井村(読み)かわいむら

日本歴史地名大系 「河井村」の解説

河井村
かわいむら

鎌倉期にみえる日野郡の有力武士団日野氏の所領。文永九年(一二七二)一二月一二日の将軍惟康親王家下知状案(備中平川家文書)に「伯耆国日野東条内河井村下原口・田野原・小倉」とみえ、亡父日野八郎重長の遺領として子息刑部乙丸に領知が命じられている。「源平盛衰記」巻三六(一谷城構事)によると、寿永三年(一一八四)の摂津いちたに(現兵庫県神戸市須磨区)の合戦に際し、平家方として伯耆国の「日郡(ママ)司義行」の名がみえ、日野義行が日野郡司であったことが知られる。


河井村
かわいむら

[現在地名]茂木町河井

小深おぶか村の南、那珂川右岸に位置する。もと川居と書かれたが、細川氏の支配になってから河井と改めたという(芳香誌料)。慶安郷帳・元禄郷帳には川井村とある。延文四年(一三五九)一〇月九日の沙弥賢安茂木知世書状写(茂木文書)によると、知世は実子ができなければ「茂木郡内河井」等を養子朝音に譲るべく定め置いている。また「那須記」によれば源頼朝の那須野での巻狩に際し、那須資光が触を出して人々を集めた地に「川井」もあったという。

近世はおおむね常陸谷田部藩領。


河井村
かわいむら

[現在地名]加茂町河井

東は物見ものみ村、西は山下さんげ村、北は阿波あば(現阿波村)に接する。阿波川と物見川が合流するため川合と称したが、後年河井と改める(東作誌)正保郷帳に高四五石余とあり、うち田方三四石余・畑方一〇石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一一石余・開高三六石余。「東作誌」では一〇一石余で、本田畑高五六石余・新田畑高三六石余・新開田畑高六石余、宝暦九年(一七五九)の新田高二石がある。家数三〇・人数九〇、うち寺・社人・山伏が各一戸。


河井村
かわいむら

[現在地名]佐伯市青山あおやま 川井かわい

市福所いちぶせ村の南、堅田かたた川の上流黒沢くろさわ川左岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高八二石余・畑高九石余、堅田郷に属した。その後の郷帳類では堅田村に含まれた。元禄見稲簿でも堅田村のうちで無高。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば堅田村の枝郷で、地内に下野角しものかど井手口いでぐちがある。


河井村
かわいむら

[現在地名]下仁田町川井かわい

北東流する南牧なんもく川と南東流する西牧さいもく川が東部で合してかぶら川となって東流する。北は下仁田村、東は吉崎よしざき村、南は栗山くりやま村と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には「川合村」とあり、高九七石六斗余はすべて畑方。天保一一年(一八四〇)の高二〇〇石四斗余、家数三五(「組合村高書上帳」桜井文書)


河井村
かわいむら

[現在地名]巻町河井

もとよろい潟に注いだ大通おおどおり川左岸に形成された同潟縁辺村村の一つ。潟頭かたがしら村の北東に位置する。南は馬堀まぼり村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録にはみえないが、寛永一一年(一六三四)三根山領となり、「川井村」と記され、村高は三七〇石九斗余(「長岡懐旧雑記」長岡の歴史)


河井村
かわいむら

[現在地名]長井市河井

今泉いまいずみ村の北、最上川・しら川の合流点に位置する。川井・河合などとも記した。最上川は当地より上流ではまつ川とも称される。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「九〆三百五十文 川井」とある。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二八五石余、免三ツ三分、家数一三(うち役家三、肝煎・小走二)・人数四九、役木として漆・紅花をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下、修正前の高は二八六石余。上杉領村目録によると高七〇三石余、本免二ツ三分四厘、反別は田四〇町余・畑一六町三反余(明和八年改)、家数三〇・人数一四六、馬一二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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