改訂新版 世界大百科事典 「桃生城」の意味・わかりやすい解説
桃生城 (ものうじょう)
陸奥国(現,宮城県)に築かれた古代の城柵。〈もものうじょう〉〈ももうのき〉ともいい,桃生柵にもつくる。8世紀の半ば以降になると陸奥国では,海道に桃生城が,山道に伊治(いじ)城がそれぞれ配置される。737年(天平9)にみえる牡鹿,新田,色麻,玉造などの諸柵で一応宮城県北鳴瀬川・江合川流域をすでに把握していたが,さらに歩を一歩進めようと意図したものである。これは東北の行政・軍事の全権を掌握した藤原朝獦(あさかり)が出羽国の雄勝城とともに,築造に力を注いだ城である。この桃生城は,757年(天平宝字1)に築造が計画され,760年に完成したものと考えられている。牡鹿郡内に〈大河に跨り,峻嶺を淩ぎ〉造られたと記されていることから,古来北上川の河口付近の桃生郡内にその遺跡が求められてきており,標高160mに及ぶ桃生町茶臼山など,城柵としてはけわしい地形の地に擬定されてきた。しかし現在は,石巻市の旧河北町飯野の地が桃生城跡と考えられている。遺跡は旧北上川の東岸に面する独立丘陵の南西端にあり,標高80mの丘陵部から,数mの平地にまたがっているとみられる。外郭線は幅約7m,高さ1mの土塁で,北辺および西辺北端,東辺の一部にその痕跡をとどめており,全体の規模は方約800mの不整方形と推定されている。北辺の土塁は西側で二股に分かれており,外郭に主郭と西郭があったことを思わせる。774年(宝亀5)海道の蝦夷が桃生城を襲い,西郭を破壊したという文献の記載とも合致する。遺跡の東寄りの平坦面には,東西116m,南北72mの内郭があり,周囲は瓦ぶきの築地がめぐっている。そしてその内部には,規則的に配された東西棟の建物が3棟検出されている。立地条件,形態,内郭を有する点,出土遺物などからこの遺跡を桃生城跡とみて大過ないものと考えられる。
執筆者:桑原 滋郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報