河原崎 国太郎(5代目)
カワラサキ クニタロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優(立女形)
- 肩書
- 劇団前進座代表者
- 本名
- 松山 太郎
- 別名
- 初名=市川 笑也
- 屋号
- 山崎屋
- 生年月日
- 明治42年 10月14日
- 出生地
- 東京市 神田区北乗物町(東京都 千代田区)
- 学歴
- 立教中卒
- 経歴
- 戦前の銀座で有名だったカフェ・プランタンの経営者で、洋画家の松山省三の長男に生まれる。6代目尾上梅幸に憧れていたことから歌舞伎俳優を志し、昭和3年20歳で2代目市川猿之助(市川猿翁)に入門、市川笑也を名乗り初舞台を踏む。6年2代目河原崎長十郎らと前進座の結成に参加。7年5代目河原崎国太郎を襲名、以後、前進座の立女形として活躍。世話物、悪婆物を得意とし、当たり役に「四谷怪談」のお岩、「助六」の揚巻、「一本刀土俵入」のお蔦、「切られお富」、「芝浜」の女房などがある。映画やテレビにも出演し、映画出演作に「街の入墨者」「戦国群盗伝」「阿部一族」「元禄忠臣蔵」「箱根風雲録」など。また座談の名手で文章もよくし、著書に「河原なでしこ」「女形芸談」「女形の道一すじ」などがある。
- 受賞
- テアトロン賞演劇特別賞(第5回)〔昭和54年〕,毎日芸術賞〔昭和55〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和57年〕,日本舞台芸術家組合賞〔昭和60年〕,下町人間庶民文化賞(第4回)〔平成1年〕
- 没年月日
- 平成2年 10月11日 (1990年)
- 家族
- 父=松山 省三(洋画家),長男=松山 英太郎(俳優),二男=松山 政路(俳優),孫=河原崎 国太郎(6代目),嵐 芳三郎(7代目)
- 伝記
- 一芸一談 桂 米朝 著(発行元 筑摩書房 ’07発行)
河原崎 国太郎(4代目)
カワラサキ クニタロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優(立女形)
- 本名
- 井上 正
- 別名
- 初名=実川 延子,前名=実川 延太郎(2代目),俳名=実正,扇之
- 屋号
- 山崎屋
- 生年月日
- 明治21年 2月11日
- 出生地
- 熊本県 熊本市
- 経歴
- 3代目実川延三郎の門に入り、明治33年実川延子を名乗り東京座で初舞台。39年2代目実川延太郎を襲名し名題に昇進。その後は宮戸座、蓬莱座などの立女形として人気を博した。45年4代目河原崎国太郎を襲名。大正2年市村座座付となるが、病のため早逝した。当たり役は「牡丹灯籠」のお米。
- 没年月日
- 大正8年 8月13日 (1919年)
- 家族
- 養父=実川 延三郎(3代目)
河原崎 国太郎(3代目)
カワラサキ クニタロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優(女形)
- 別名
- 初名=市川 市丸,前名=市川 市徳,中山 一徳(4代目)
- 屋号
- 山崎屋
- 生年月日
- 嘉永6年
- 出生地
- 江戸(東京都)
- 経歴
- 嵐寛六(尾上鐘蔵)の長男。3代目市川市蔵の門に入り、市川市丸を名乗り初舞台。河原崎家の養子となり、明治11年市村座で3代目国太郎を襲名。世話女房役を得意とし、当たり役は「仙台萩」の政岡、「伊勢音頭」のお紺など。
- 没年月日
- 明治20年 7月21日 (1887年)
- 家族
- 父=嵐 寛六(=尾上鐘蔵)
河原崎 国太郎(2代目)
カワラサキ クニタロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優(立女形)
- 別名
- 初名=尾上 覚之助,前名=尾上 梅幸(5代目),尾上 栄三郎,後名=河原崎 国三郎,喜勢川 露紅(キセガワ ロコウ)
- 経歴
- 明治初期の若女形。安政4年(1857年)市村座で初舞台。元治元年(1864年)守田座で5代目尾上梅幸を襲名。明治2年6代目河原崎権之助の養子となり、同年市村座で2代目国太郎を襲名。7年河原崎座の立女形となるが、翌年故あって離縁となった。のち河原崎国三郎と名乗り、さらに喜勢川露紅と改名した。
- 没年月日
- (生没年不詳)
- 家族
- 実父=尾上 菊五郎(4代目),養父=河原崎 権之助(6代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
河原崎 国太郎(5代目)
カワラサキ クニタロウ
昭和・平成期の歌舞伎俳優(立女方) 劇団前進座代表者。
- 生年
- 明治42(1909)年10月14日
- 没年
- 平成2(1990)年10月11日
- 出生地
- 東京市神田区北乗物町(現・東京都千代田区)
- 本名
- 松山 太郎
- 別名
- 初名=市川 笑也
- 屋号
- 山崎屋
- 学歴〔年〕
- 立教中卒
- 主な受賞名〔年〕
- テアトロン賞演劇特別賞(第5回)〔昭和54年〕,毎日芸術賞〔昭和55〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和57年〕,日本舞台芸術家組合賞〔昭和60年〕,下町人間庶民文化賞(第4回)〔平成1年〕
- 経歴
- 戦前の銀座で有名だったカフェ・プランタンの経営者で、洋画家の松山省三の長男に生まれる。6代目尾上梅幸に憧れていたことから歌舞伎俳優を志し、昭和3年20歳で2代目市川猿之助(市川猿翁)に入門、市川笑也を名のり初舞台を踏む。6年2代目河原崎長十郎らと前進座の結成に参加。7年5代目河原崎国太郎を襲名、以後、前進座の立女方として活躍。世話物、悪婆物を得意とし、当たり役に「四谷怪談」のお岩、「助六」の揚巻、「一本刀土俵入」のお蔦、「切られお富」、「芝浜」の女房などがある。映画やテレビにも出演し、映画出演作に「街の入墨者」「戦国群盗伝」「阿部一族」「元禄忠臣蔵」「箱根風雲録」など。また座談の名手で文章もよくし、著書に「河原なでしこ」「女形芸談」「女形の道一すじ」などがある。
河原崎 国太郎(4代目)
カワラサキ クニタロウ
明治・大正期の歌舞伎俳優(立女方)
- 生年
- 明治21(1888)年2月11日
- 没年
- 大正8(1919)年8月13日
- 出生地
- 熊本県熊本市
- 本名
- 井上 正
- 別名
- 初名=実川 延子,前名=実川 延太郎(2代目),俳名=実正,扇之
- 屋号
- 山崎屋
- 経歴
- 3代目実川延三郎の門に入り、明治33年実川延子を名のり東京座で初舞台。39年2代目実川延太郎を襲名し名題に昇進。その後は宮戸座、蓬萊座などの立女方として人気を博した。45年4代目河原崎国太郎を襲名。大正2年市村座座付となるが、病のため早逝した。当たり役は「牡丹灯籠」のお米。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
河原崎国太郎
かわらさきくにたろう
歌舞伎(かぶき)俳優。屋号山崎屋。
[服部幸雄]
(1849―67)江戸河原崎座の座元、6世河原崎権之助(ごんのすけ)の子。若女方(わかおんながた)。
[服部幸雄]
(1888―1919)熊本生まれ。1912年(明治45)6月、2世実川(じつかわ)延太郎から4世を襲名。女方(おんながた)。本名の井上正で新派にも出演した。
[服部幸雄]
(1909―90)本名松山太郎。洋画家松山省三の子。東京生まれ。2世市川猿之助(猿翁(えんおう))の門に入り、市川笑也(えみや)と名のり、劇団前進座の結成に参加。1932年(昭和7)5世国太郎を襲名。前進座の立女方(たておやま)として活躍、とくに世話物の女方に優れ、悪婆(あくば)物に独自の味を発揮した。著書に自伝『河原なでしこ』(1955)、『女形芸談』(1972)、『女形半生記』(1991)などがある。
[服部幸雄]
(1962― )6世嵐芳三郎(あらしよしさぶろう)の長男。本名寺田克己。前進座の女方。1998年(平成10)、5世嵐市太郎(いちたろう)から6世河原崎国太郎を襲名。
[服部幸雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
河原崎国太郎 (かわらさきくにたろう)
歌舞伎俳優。江戸河原崎座の座元6世河原崎権之助の子で,幕末の若女方として著名な国太郎が1859年(安政6)に名のったのがはじまり。5世までのうち4世,5世が有名。(1)4世(1888-1919・明治21-大正8) 本名井上正。熊本生れ。3世実川延三郎の門弟となり上京,1900年東京座で実川延子(えんし)を名のり初舞台。06年5月東京座で2世実川延太郎となり,宮戸座,蓬萊座で立女方として活躍,2世市川猿之助(猿翁)と組む。12年6月東京歌舞伎座で国太郎を襲名。19年帝劇《牡丹灯籠》のお米で認められる。(2)5世(1909-90・明治42-平成2)洋画家松山省三の子。1928年3月2世市川猿之助に入門,市川笑也を名のり初舞台。31年5月前進座の創立に参加,立女方として活躍。32年4月市村座で国太郎を襲名。《於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)》,《東海道四谷怪談》のお岩をはじめ多くの南北物,世話物に長じた。《女形芸談》ほか著書も多く,理論と実践を兼ねた。
執筆者:落合 清彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
河原崎国太郎(4代) かわらさき-くにたろう
1888-1919 明治-大正時代の歌舞伎役者。
明治21年2月11日生まれ。3代実川延三郎の門にはいる。明治39年2代実川延太郎を名のり,女方で人気を博した。45年4代国太郎を襲名。大正8年帝国劇場で「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」のお米に扮(ふん)してたかく評価されたが,同年8月13日死去。32歳。熊本県出身。本名は井上正。初名は実川延子。俳名は扇之。
河原崎国太郎(5代) かわらさき-くにたろう
1909-1990 昭和-平成時代の歌舞伎役者。
明治42年10月14日生まれ。松山省三の子。昭和3年2代市川猿之助に入門し,市川笑也(えみや)を名のる。6年前進座の結成に参加。翌年5代河原崎国太郎を襲名。前進座の立女方として活躍。世話物,悪婆物などを得意とした。平成2年10月11日死去。80歳。東京出身。本名は松山太郎。屋号は山崎屋。
河原崎国太郎(3代) かわらさき-くにたろう
1853-1887 明治時代の歌舞伎役者。
嘉永(かえい)6年生まれ。嵐寛六(尾上鐘蔵)の長男。3代市川市蔵の門にはいり,市川市丸の名で初舞台をふむ。河原崎家の養子となり,明治11年3代国太郎を襲名。世話女房役を得意とした。明治20年7月21日死去。35歳。江戸出身。前名は中山一徳(4代)。
河原崎国太郎(初代) かわらさき-くにたろう
1849-1867 幕末の歌舞伎役者。
嘉永(かえい)2年生まれ。6代河原崎権之助の子。安政6年江戸市村座で初舞台をふむ。若女方の花形としてならしたが早世した。慶応3年4月21日死去。19歳。江戸出身。俳名は扇之。屋号は山崎屋。
河原崎国太郎(2代) かわらさき-くにたろう
?-? 明治時代の歌舞伎役者。
4代尾上菊五郎の子。尾上覚之助の名で初舞台をふむ。明治2年6代河原崎権之助の養子となり,2代国太郎を襲名。8年離縁して河原崎国三郎を名のり,のち喜勢川露紅と改名。前名は尾上栄三郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
河原崎国太郎(5世)
かわらさきくにたろう[ごせい]
[生]1909.10.14.
[没]1990.10.11.
歌舞伎俳優。屋号山崎屋。本名松山太郎。父は洋画家松山省三。2世市川猿之助の門弟で,市川笑也を名のる。前進座の創立に参加し,1932年襲名。長く同座の立女方として活躍し,特に世話物や悪婆物にすぐれた舞台をみせた。鶴屋南北作品の復活上演にも貢献。俳優の松山英太郎,政路は息子。
河原崎国太郎(4世)
かわらさきくにたろう[よんせい]
[生]1888
[没]1919
歌舞伎俳優。屋号山崎屋。本名井上正。前名実川延太郎。小芝居の立女方として活躍。 1912年襲名。6世尾上菊五郎の相手役として期待されたが,早世した。
河原崎国太郎(2世)
かわらさきくにたろう[にせい]
歌舞伎俳優。屋号山崎屋。前名尾上栄三郎。4世尾上菊五郎の門弟であったが河原崎家の養子となり,明治2 (1869) 年襲名。河原崎座の立女方として活躍したが,1875年離縁され,名跡返上。
河原崎国太郎(3世)
かわらさきくにたろう[さんせい]
[生]嘉永6(1853)
[没]1887
歌舞伎俳優。屋号山崎屋。前名中山一徳。小芝居の女方であった。河原崎家の養子となり,1878年襲名。芯の強い女の役に長じた。
河原崎国太郎(1世)
かわらさきくにたろう[いっせい]
[生]嘉永2(1849)
[没]慶応3(1867)
歌舞伎俳優。屋号山崎屋。河原崎座座元,河原崎権之助の子。若女方として活躍したが早世。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
河原崎 国太郎(5代目) (かわらざき くにたろう)
生年月日:1909年10月14日
昭和時代;平成時代の歌舞伎役者
1990年没
河原崎 国太郎(4代目) (かわらざき くにたろう)
生年月日:1888年2月11日
明治時代;大正時代の歌舞伎役者
1919年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の河原崎国太郎の言及
【前進座】より
…第2次世界大戦後,青年劇場運動で注目されたが,49年共産党に集団入党し,民族文化の改良と創造を唱えた。これを契機に商業劇場から一時締め出されたが,講和後,長十郎の《鳴神》,翫右衛門の《俊寛》,5世[河原崎国太郎]の《切られお富》,5世[嵐芳三郎]の《寺子屋》,[瀬川菊之丞]の《阿部一族》などで旺盛な活動を試みた。67年9月思想的対立から長十郎を除名する事件があったが,79年12月歌舞伎座で創立50年記念公演を行い,82年10月東京・吉祥寺の劇団敷地内に前進座劇場を開場。…
※「河原崎国太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」