泉二 新熊
モトジ シンクマ
明治〜昭和期の刑法学者,司法官 大審院長;検事総長;枢密顧問官。
- 生年
- 明治9年1月2日(1876年)
- 没年
- 昭和22(1947)年10月25日
- 出身地
- 鹿児島県奄美大島
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法科大学独法科〔明治35年〕卒
- 学位〔年〕
- 法学博士〔大正5年〕
- 経歴
- 明治35年司法省に入り、東京地裁検事、司法参事官を経て、大正2年東京控訴院検事、4年大審院判事、12年司法省行刑局長、昭和2年刑事局長、6年大審院部長判事に累進した。11年広田内閣時の検事総長、14年平沼内閣の大審院長に任ぜられる。16年退官し、17〜21年枢密顧問官。21年公職追放により退職、弁護士を開業。その刑法理論は折衷的客観主義の立場から刑事司法の解釈、実務論を展開、“泉二刑法”と称された。しかしその応報刑説は権威主義的な色彩が濃かった。著書に「刑法大要」「日本刑法論」(全2巻)など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
泉二 新熊
モトジ シンクマ
- 肩書
- 枢密顧問官,大審院長,検事総長
- 生年月日
- 明治9年1月2日
- 出身地
- 鹿児島県奄美大島
- 学歴
- 東京帝大法科大学独法科〔明治35年〕卒
- 学位
- 法学博士〔大正5年〕
- 経歴
- 明治35年司法省に入り、東京地裁検事、司法参事官を経て、大正2年東京控訴院検事、4年大審院判事、12年司法省行刑局長、昭和2年刑事局長、6年大審院部長判事に累進した。11年広田内閣時の検事総長、14年平沼内閣の大審院長に任ぜられる。16年退官し、17〜21年枢密顧問官。21年公職追放により退職、弁護士を開業。その刑法理論は折衷的客観主義の立場から刑事司法の解釈、実務論を展開、“泉二刑法”と称された。しかしその応報刑説は権威主義的な色彩が濃かった。著書に「刑法大要」「日本刑法論」(全2巻)など。
- 没年月日
- 昭和22年10月25日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
泉二新熊
もとじしんくま
(1876―1947)
法律家、刑法学者。奄美(あまみ)大島に生まれ、旧制第五高等学校(現熊本大学)を経て、1902年(明治35)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。5年4月に検事としてスタートして以来、大審院判事、検事総長等を歴任して、1939年(昭和14)63歳で大審院長になった。泉二は実務家としてのみならず、東京帝国大学法学部、東北帝国大学法文学部などの講師を兼任し、客観主義の刑法学者として活躍した。また、刑法改正作業においても、刑法改正予備草案、改正刑法仮案の作成に参与した。代表的著作としては、1908年の『改正日本刑法論』を分冊した『日本刑法論』上下二巻(1927)があり、ほかに『刑法大要』(1911)、『刑事学研究』(1920)などがある。
[名和鐵郎]
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泉二新熊
もとじしんぐま
[生]1876.1.27. 奄美大島
[没]1947.10.25. 東京
明治・大正・昭和期の刑法学者。1902年東京帝国大学卒業後司法省に入り,1936年検事総長,1939~41年大審院院長,1942年枢密顧問官(→枢密院)を歴任。牧野英一,大場茂馬とともに明治末期から大正の日本の法学界を代表した。禁酒禁煙論者としても著名。主著に『改正日本刑法論』(1908),『刑法大要』(1911)がある。
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泉二新熊 もとじ-しんぐま
1876-1947 明治-昭和時代前期の司法官。
明治9年1月27日生まれ。大審院判事,司法省行刑局長などをへて昭和11年検事総長,14年大審院長。東京帝大などの講師もつとめ,客観主義の刑法学者として実務,学説に影響力をもった。主著に「日本刑法論」。枢密顧問官。昭和22年10月25日死去。72歳。鹿児島県出身。東京帝大卒。
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泉二 新熊 (もとじ しんくま)
生年月日:1876年1月27日
明治時代-昭和時代の司法官。大審院長;検事総長;枢密顧問官
1947年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報